日本映画学会会報第13号(2008年4月号)
●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ
- 日本映画学会会員のみなさまにおかれましてはお変わりなくお過ごしのことと思います。さて新年度にともなう御所属の移動等がございましたら事務局まで御一報下さい。また経費節減のために本学会では事務連絡等は基本的にEメイルで行っておりますので、Eメイルアドレス等の御変更がありましたら速やかにお知らせ下さい。
●映画評 波多野哲朗『Cuba/Okinawa サルサとチャンプルー』(2007年、100分)
小野智恵(京都大学大学院博士後期課程)
「クロッシング・ボーダーズ」を目下のテーマと定める波多野哲朗会員が7年の歳月を掛けて編んだ「辺境」のドキュメンタリーが満を持していよいよ公開の運びとなった。これは20世紀初めに沖縄からキューバへと渡った移民とその末裔たちを追った記録である。しかし移民を扱った凡百のドキュメンタリーと異なるのは、この映画が異郷に残された日本人の痕跡をたどろうとするのではなく、その痕跡が異郷の風土と混じり合い溶け合うさまを一貫して映し出そうとしている点にある。
今年はブラジル日本移民百周年の節目にあたる。1908年に「笠戸丸」がサントス港にたどり着いてから太平洋戦争開戦までの間にブラジルへ渡った移民はおよそ19万人。その数に比すれば、この映画の主役であるキューバへの移民が1143人とはいかにも少ない。実際、かつて日本からキューバへの移民があったことはあまり知られていない。しかしこの作品は、奇跡とも思えるほどの出会いの数々を得て行なった移民一世、二世、三世、四世とその関係者たちへの貴重なインタビューを軸にキューバ移民の歴史を丁寧に繙き、人知れずそこに眠っていた物語を掘り起こす。数年に亘って幾度かのインタビューを繰り返す間に新たな物語も生まれた。このドキュメンタリーはここに映し出された日系人たち個人の記録としてだけではなく、その時代に日本とキューバが歩んだ道筋に翻弄されながら離散し浮遊していった人々とその子孫たちの普遍的な在り様を描き出すことに成功しているのである。
この映画の主な舞台となるのは、キューバの離島イスラ・デ・ラ・フベントゥと呼ばれる場所である。1924年以降日本からは約350人が主に農業に従事するためこの地に移り住んだとされ、日本人会に所属しているだけで現在もおよそ120人の日系人が生活する。島に降り立ったカメラはまず1907年に生まれ19歳でキューバへ渡ってきたという日系一世の老人の姿を捉える。はじめのうち、この映画の語り手の関心は彼ら日系人のなかに「保存」されているはずの「日本的なるもの」を記録に留めることにある。日本語しか話さず、最近の日本の事情にも通じていることがうかがわれる日系一世の老人の記憶にある「日本」は強力なノスタルジーと微笑ましい美化を伴ってわれわれの前に提示される。しかし、たったいま郷愁を込めて日本の詩を口ずさんだのと全く同じ調子で、懐かしそうに彼がキューバの民謡を吟ずるのをわれわれは目撃する。
次にカメラは、夫が定年退職を迎えたばかりという日系二世の夫妻を映し出す。語り手の前で彼らは仲良く「頭を雲の上に出し・・・」と唄い始める。それはわれわれの知る《富士山》という曲と似てはいるがどこか違う。語り手は次第に、彼ら日系人のなかに「保存」されているはずの「日本」とは何か、あるいは「日系人」とは何なのかを問い始める。夫の父親は1925年に沖縄・瀬底島からやってきた移民である。彼を含めてキューバへは沖縄からの移住者が最も多かった。それには近代的な産業の未発達やそれ以前から出稼ぎに対する抵抗が少なかったこと、あるいは徴兵忌避など沖縄特有の理由が挙げられるだろうが、語り手はここで、中国・日本・南方諸国の文化が混じり合う琉球と戦後にはアメリカのエッセンスが入り混じった沖縄のチャンプルー文化とも呼ぶべきものに思い至る。一方、キューバではもともと白人と黒人の混血であるムラートの比率が高く、それをさらに加速させたのがキューバ革命政権による徹底した人種平等政策であった。ここではさまざまな肌の色が溶け合い、何が「本質」なのかを問うことなどあまり意味のないことのように見える。スペインとアフリカとアメリカの文化が混じり合ったキューバにはキューバ音楽とジャズ等が溶け合うサルサがあることを語り手はまたわれわれに思い出させてもくれるのである。日系人によるコーラスグループが唄う小気味よく変容を遂げた《君が代》はまさに沖縄とキューバが持つ「ハイブリディティ=異種混淆性」が具現化したものであるといえる。
ここには書ききれないほどの興味深い出会いがほかにも数多く記録されている。「日本のことなんて忘れました」といいながらも子供の頃のことを懐かしがり、戦前戦中のキューバでの生活を「いいことなんて何もなかった」と振り返りながら子供を留学までさせて立派に育て上げた1915年生まれの日系一世女性の二度にわたる述懐。かつて流刑の地であったこの島にミュージアムとして残されているパノプティコンを中心とした監獄の異様さと、太平洋戦争の間キューバに住む日系人男性たちがそこにひとり残らず収容されたという逸話。多くの日系二世たちの物語・・・。
本編には父母が沖縄・石川市から移住してきたという日系二世の姉弟も登場する。両親は既に亡くなり、3人の姉弟とその家族がイスラに暮らす。インタビューの途中で弟が語り手に問う。「僕たちの文化は日本人からどう見えますか?僕たちは果たして日本の文化を維持しているんだろうか?」と。語り手はその質問に戸惑いを隠せない。姉のひとりははじめてのインタビューから数年の後に、沖縄に長男を置いたままキューバへと移り住まざるを得なかった両親の物語を伝記として出版し、その著書が評判を呼び当地でテレビドラマとして放映されるまでに到る。さらに彼女は父母が移住の際に沖縄へ残してきてしまったその長男、つまり自分たちの未だ見ぬ兄に会い、死ぬまで母は彼を忘れることがなかったという事実を伝えたいと切に願うのである。一方、前述した日系二世夫妻は作者と出会ってからまもなく、生前に帰郷のかなわなかった父の遺骨を沖縄・瀬底島へと運んで先祖代々の墓へ納めるという長年の夢を果たし、そのまま沖縄市に移住してしまうのである。その上、キューバ人と結婚し一女をもうけていた彼らの次男までもが離婚して沖縄へ渡り、両親の家の近くに移り住んでしまうのだ。
ギリシア語で「散らされている者」を意味するディアスポラ。ホールが定式化した「ディアスポラ・アイデンティティ」とは変容や差異を通じて自らを絶えず新しく生産し、再生産するアイデンティティであった。イスラ・デ・ラ・フベントゥに住む日系人たちは、たしかに、異郷の地に混じり合い溶け合うことを恐れず自らを常に変容させながらも、それと同時に「日本」という共通の故郷を何としても渇望してやまないのである。彼らの思い描く「日本」とは果たして同じものなのだろうか。「日系人」とは何なのか。語り手はわれわれ観る者を抜け難いアンビバレンスに陥れながら、その答えを委ねるのである。
●新入会員紹介
- 佐藤元状(慶應義塾大学法学部専任講師)英文学/イギリス映画史
- 関谷直人(同志社大学神学部教授)キリスト教文化学
- 西貝 怜(東海大学海洋学部生物資源学類研究生)動物心理学/アニメーション論/漫画論
- 三浦京子(北海学園大学経済学部教授)
- 村上 東(秋田大学教育文化学部准教授)ロバート・アルトマン論ほか