日本映画学会会報第6号(2006年11月号)
●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ
- 全国大会(12月2日)が近づいております。大会参加を予定されている会員におかれては、大会当日の2週間前までに事務局宛にEメイルで、「件名」欄に「出席」とお書きの上、本文に御氏名、御所属等を書き、さらに懇親会出席の有無を御記入のうえ送信下さい。
- 2006年度の学会費は12月2日までに所定の方法でお支払い下さい。
●学会誌『映画研究』創刊号の編集を終えて
杉野健太郎(信州大学人文学部助教授)
日本映画学会学会誌『映画研究』編集委員会の編集委員長を務めさせていただいている杉野と申します。昨年の日本映画学会設立後、われわれ編集委員会のメンバーは、常任理事会と協議を重ねながら、学会誌『映画研究』創刊の準備をすすめてまいりました。「投稿規程」および「書式規程」の作成からはじめて、おかげさまで創刊号の刊行を待つばかりになりました。
レフェリー制学術誌である日本映画学会学会誌には、二つのシンプルな理念があります。一つは、審査の公平性です。すなわち、年齢・性別などは審査とは一切関わりがないようにするということです。あくまで論文そのものが審査対象です。そのために、論文審査は、執筆者の氏名など一切の個人情報が伏せられた状態で行います。社会にせよ学会にせよ何にせよ、公正さがないところには健全な発展はないと個人的にも考えております。もう一つの理念あるいは当面の課題は、執筆者の育成です。まだスタートを切ったばかりの若い学会ですので、学会および映画研究の発展のために執筆者を育て増やしていく必要があるのです。以上が学会誌の理念的方針です。
さて、編集委員会の仕事ですが、投稿論文を査読し採否を決定し、執筆者へのコメント(書式上の訂正や明らかな誤字などをできる限り知らせることも含んでいます)を整え、それを事務局に送付するまでが編集委員会の所轄です。採用が決定した論文の執筆者は、決定後一定期間をおいて、編集委員会のコメントを参考にして、印刷のための最終ファイルを完成させ提出します。今回は、執筆者が修正・訂正するための時間は3週間ほどあったと思います。
次に今回の創刊号の審査に関してです。今回は7編の応募がありましたが、1編はしめきりを大幅に過ぎていたために、6編が審査の対象となりました。審査は、もちろん、執筆者の氏名などが伏せられた状態の匿名審査で行いました。今回の審査対象の論文数は6でしたので、委員会のメンバー全員が6編すべての論文を査読しました。6編中3編が採用されるという結果にあいなりましたが、匿名の投票で決めた採否に関しては全会一致であり今回は審議の必要はありませんでした。また、採用編数は決まっているわけではなく、ある一定の水準を超えたものはすべて掲載するという方針で採否を決定しました。採否の基準をどこに置くかは難しい問題ですが、本学会誌の掲載対象となるものは、「映画に関わる未刊行の研究論文」です(「未刊行」とありますが、他誌にすでに掲載した論文を書き直した場合はその旨を記せば投稿可能という常識的方針を採っていますので申し添えておきます)。研究論文または学術論文とは、ある論題に関して先行研究を参照しながら自分独自の考えを論証するものであると簡単に定義できるでしょう(ただし、新しい論題には先行研究がない場合もあると思われます)。もちろん、先行研究とまったく同じことを述べていては独自の考えとは言えないでしょうし、自分独自の考えを述べていても論証がなければ研究論文とは言えないでしょうし、また、その論証は説得力を持つものでなければなりません。今回の審査に通った論文は、細部に委員から異議はでても、研究論文の資格をそなえるとともに一定以上の説得力を持つ論文でした。一方、審査に漏れた論文は、将来の展開や発展を期待させるものの、その点がやや欠けるものでした。また、書式や言語がやや不適切な箇所のある論文がありましたが、書式規程からの大幅な逸脱はおひかえくださるとともに適切な言語表現を心がけ、とりわけ母語でない言語で執筆された場合はネイティヴ・チェックを欠かさないでいただけると幸いです。
今回の編集委員会の審査は以上のようなものでしたが、今回の反省をふまえて変えるべきところは変えていきたいと思います。もちろん、投稿論文が増えれば、方法や手続きなどを変えざるを得ないという事態も予想されます。いずれにせよ、学会誌『映画研究』は、本学会および日本における映画研究とともに発展していきたいと思います。数多くの投稿を心よりお待ち申し上げております。
(学会報編集部註—-学会誌は毎年、全国大会当日[2006年度は12月2日]に大会参加会員に配布されます。大会に参加されなかった会員には後日郵送されます。)
●視点 映画における北海道表象 ― その隠喩性について
大石和久(北海学園大学人文学部助教授)
映画はいかに北海道を表象してきたのか。いまだほとんど手つかずであるこの問いを問うとき、その方法論的「視点」として、ロマン・ヤコブソンが提起した、映画におけるレトリックを換喩と隠喩という比喩の二大類型に分けて捉えるという記号論的な視点は、今なお有効なのではないだろうか、と私は考えている。
まずは、映画における換喩的なあるいはむしろ提喩的な北海道表象を取り上げよう。ヤコブソンは提喩を換喩に含まれるものとして考えるのだが、換喩とは隣接性に基づく比喩であり、提喩は部分によって全体を代表させるような比喩を指す。では、北海道の換喩的もしくは提喩的表象とは、具体的にはどのようなものか。北海道の映画批評家、竹岡和田男はその著書『映画の中の北海道』の中で、「札幌と言えば、時計台、北大のポプラ並木、大通り公園が、必ず出てきたものである。それさえあればの安直さが絵はがき的だとヒンシュクを買ったりした」と伝える。この場合「時計台、北大のポプラ並木、大通り公園」が札幌全体の代理となっており、部分が全体を代表しているのだから、このような表象のあり方を提喩的表象と呼ぶことができるだろう。提喩的表象は、北海道以外の地域の表象においてもよく見られるレトリックである(ステレオタイプな例を挙げるならば、東京という都市を「東京タワー」を映すことによってあらわす場合など)。さて、映画における北海道表象に特徴的な修辞学的な傾向があるとすれば、それは北海道が映画の中では連綿として隠喩的な性格を帯び続けてきた点にあるのではなかろうか。
ヤコブソンが換喩とならび比喩のもう一つの類型と考えるのは隠喩であり、それは類似性に基づく比喩である。では、北海道の隠喩的表象とは具体的にはいかなるものか。たとえば黒澤明の『白痴』(1951)。『白痴』はドストエフスキーの同名の小説を翻案映画化したものであるが、黒澤は札幌を小説『白痴』の舞台であるペテルブルグになぞらえながら、札幌ロケを行った。黒澤自身、札幌は「エキゾティックな街で、北欧風の建築物が多く」、ペテルブルグと同じように「雪と氷の街」であった、と言っている。黒澤は札幌とペテルブルグの類似性に注目したのであり、『白痴』の中で札幌はペテルブルグの「隠喩」であったのである。ここで注意したいのはこのような場合、隠喩と提喩とが密接に絡み合ってくることである。すなわち黒澤が『白痴』の中で提喩的に「北欧風の建築物」、雪の風景などで代表させた札幌の町は、隠喩的にはペテルブルグを暗示するのである。北海道の都市をロシアに見立てた、近年の例としては、森田芳光監督『海猫』(2004)を挙げることができるだろう。この映画の中では、函館の町をロシア正教会の寺院(ハリストス正教会)によって提喩的に表象することを通して、函館とロシアとの類似性を強調していた(この映画のヒロインは日本人とロシア人のハーフである)。
さらに映画の中で北海道はロシアのみならず、アメリカの隠喩でもあり続けてきた。たとえば「渡り鳥シリーズ」(1959-1962)。「渡り鳥シリーズ」は日本を舞台とした西部劇でありかつギャング映画であって、それはまさしく「無国籍映画」であったのだが、このシリーズ10作中3作が北海道を舞台にしている。特にシリーズ第6作目の『大草原の渡り鳥』(1960)は西部劇『シェーン』(1953)の日本版であり、そこでは北海道の大草原がアメリカ西部の大平原に見立てられていた(この映画には、アイヌが、かつて「インディアン」と呼ばれていたアメリカ原住民の隠喩として登場する。このアイヌ表象の隠喩性という視点からも、映画におけるアイヌ表象の政治性を考察する必要があろう)。ここにも隠喩と提喩の絡み合いが見られるのは、明らかであろう。すなわち北海道の大草原は提喩的に北海道全体を代表しつつも、隠喩的にアメリカ西部を暗示しているのである。さらには山田洋次が北海道の一本道をアメリカのハイウェイになぞらえつつ撮ったロード・ムーヴィー『幸せの黄色いハンカチ』(1977)においても、北海道はアメリカの隠喩であった。近年の例では、馬の群れが北海道の大草原を疾駆する行定勲監督の『北の零年』(2004)にアメリカ西部の隠喩としての北海道を見ることができる。以上のように北海道を隠喩的に表象する映画は、まだまだ枚挙にいとまがない。
北海道ほどに、このような隠喩性を帯びて表象され続けてきた地域が他に日本にあるだろうか。少なくとも、この隠喩性が映画における北海道表象の一つの傾向を形成しているとは言えるだろう。この隠喩性は当然のことながら、日本でありながらも異国であるという、一種のエキゾティックなイメージを北海道に与えることになる。そしてそのイメージを作り出したのは、もちろん、北海道にロケにやってきた人々の、あえて言えば「内地」からの眼差しであった。
内地からの眼差しが北海道をエキゾティシズムで染め上げ、隠喩的な想像性に満ちた空間を創出するといった事態は、もちろん、北海道の都市・自然景観の物理的特殊性に由来するものであろうが、それだけではあるまい。竹岡が指摘するように、映画の舞台としての北海道が「国策が大陸と南方だけに目を向けた戦前戦時こそ影が薄」かったが、その異国のような景観が「戦後、自由やロマンを求める人の心をキャッチ」したのであれば(憧れの北海道)、戦後の日本の政治的コンテクストをも、この隠喩的エキゾティシズムを考察する上では考慮しなければならないだろう。また、そもそも「内国植民地」であったという北海道の歴史的・政治的コンテクストや、さらには現在に目を向ければ、映画と観光産業との結びつきをも考慮しなければならないであろう。
とまれ北海道は、その日本離れしたスペクタクルによって異国の代理であり続けてきた。北海道を隠喩的に表象するような映画においては、北海道は異国を描くためのいわば「素材」に過ぎず、北海道「それ自体」へとは目が向けられてこなかった、と言えるのではないか。映画の中で北海道を「それ自体」として捉えるならば、北海道はどのような相貌を呈するだろうか。この文章を締めくくるにあたって、北海道を「それ自体」として捉える実践を試みた映画を取り上げたい。小林正弘監督『バッシング』(2005)である。イラク日本人人質事件をモデルにして作られたこの映画には、北海道を舞台としつつも、日本離れしたスペクタクルはまったく出てこない。延々と曇天が続く、北海道の海辺の一都市、苫小牧の日常空間を背景にしたドラマが描かれるだけである。映画評論家、阿部嘉昭はこの映画の斉藤幸一のカメラについて、それは「苫小牧近郊(とくに団地)の荒涼とした質感を、霊的な高みにまで定着してゆく」と言う。たしかに、この映画には日本離れしたスペクタクルなど皆無である。しかし、そこには、その代わりに北海道の風景に潜在していた「霊的な高み」が炙り出されているのである。隠喩的エキゾティシズムというヴェールが剥がされたときに、北海道の景色に潜むこの霊性が露呈されたのだとすれば、そのような霊性の中に北海道「それ自体」の一つの姿を見出すことができるのではないか、と私は考えている(むろん、それも一つの表象であることを承知の上で)。
●視点 ピエール・コトレルを再導入する
須藤健太郎(横浜国立大学大学院博士後期課程)
「いつか一緒に仕事をしよう。おまえは監督として、おれはプロデューサーとして」。映画作家を目指す若き日のジャン・ユスターシュは、親友とそんな約束を交わしていた。シネマテークに通いつめ、「カイエ・デュ・シネマ」誌を定期購読する典型的なシネフィルの生活。日銭を稼ぐための退屈な労働と、映画についての絶え間ない議論。そして、いつの日か自分も映画作家になるという捨てきれない夢。60年代のパリ。ヌーヴェル・ヴァーグが勃興するのを間近に体験しながら、ユスターシュが映画作家としての自己形成を果たしたことはよく知られている。山田宏一が『友よ、映画よ??わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』で生き生きと描写したように、68年を境に決裂してしまうゴダールとトリュフォーの友情をはじめ、ヌーヴェル・ヴァーグは数々の友情に彩られてきた。その影響を多分に受けたユスターシュもまた、そのような友情の物語と無縁ではなかったのである。
「おれはプロデューサーとして」……。ユスターシュと約束を交わしたのは、ピエール・コトレルという名の14歳の少年である。彼は、名門中の名門リセであるアンリ4世校に通うかたわら、熱狂的なシネフィルだった。しかしユスターシュとは異なり、ウォルター・ウェンジャーやデヴィッド・O・セルズニックに憧れていた彼は、次第にプロデューサーになる決意を固めていくことになる。一方が処女作へと向けて歩み出したころ、もう一方はその夢の実現へと向けて、一人アメリカへと渡った。
1998年、「カイエ・デュ・シネマ」誌より、別冊の形で「ジャン・ユスターシュ特集」が刊行された。この特集では、ユスターシュを回顧するにあたって、二人の友人に焦点が当てられている。一人はいま挙げたピエール・コトレルであり、もう一人は精神分析医ジャン=ノエル・ピックである。後者が『不愉快な話』(1977)や『ヒエロニムス・ボスの快楽の園』(1979)といった後期ユスターシュ作品のインスピレーションの源泉かつ主人公として多大な貢献をしているとすれば、前者は『ママと娼婦』(1973)や『ぼくの小さな恋人たち』(1974)など、ユスターシュの個人的な体験が多分に反映された代表作の製作を担当した人物である。しかし、やはり『不愉快な話』や『快楽の園』の語り手を想起させずにはおかないピックの語り口が、ユスターシュ理解の手助けへと収斂していく一方、コトレルのロング・インタヴューを読むことで浮かび上がるのは、ユスターシュとの交流の仔細やそれが作品に与えた影響である以上に、彼自身がたどった興味深い人生なのである。「オットー・プレミンジャー、デルマー・デイヴズ、そしてウォルター・ウェンジャーに私は連絡しました。彼らは私を暖かく迎え入れてくれただけではなく、定期的に会おうと言ってくれました。アンリ・ラングロワがニューヨークに来て、デイヴズやウェンジャーに会いたがったとき、私は彼に新しい友人たちを紹介したのです」と、コトレルは語る。アメリカへと渡った彼は、フランスの映画人たちと彼らの憧憬の対象だったアメリカの映画人たちを結ぶ「橋渡し役」を担ったのだった。
ジョナス・メカスのアシスタントを経て、ロジャー・コーマンの下での修行時代。そしてアメリカン・ニューシネマの連中との交流……。コトレルは、ボブ・ラフェルソンから自由に使うよう渡されていた6万ドルを、即座に『ママと娼婦』の製作資金として使う。しかし彼がアメリカから持ち帰ったものは、単に金額に換算できるものではなかった。彼は『アメリカの友人』(1977)、『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980)、『ことの次第』(1981)といったヴィム・ヴェンダース作品の製作を担当している。どれも50年代アメリカB級映画への惜しみないオマージュが発揮された作品であることは周知のことだろう。サミュエル・フラーやニコラス・レイを自らの作品に登場させ、アメリカではない場所で、すでに失われてしまったアメリカ映画をいかに撮るかという内省を繰り返していたのが、当時のヴェンダースである。『ことの次第』の撮影に入る前に、彼はコトレルと一緒にアラン・ドワンに会いに行っているが、以後『ハメット』(1982)をもってアメリカへと活動の場所を移すヴェンダースにとって、コトレルはそれこそ橋渡し役と呼ぶにふさわしい存在だった。
しかしコトレルの活動は、単にヨーロッパとアメリカとを繋ぐ橋渡し役に限定されるものではないだろう。「私はバルベ・シュレデール(バーベット・シュローダー)と一緒に仕事を始めました。昔のリセの仲間です。(……)私は、フィルム・デュ・ロザンジュの立ち上げに協力したのです」と、コトレルは語っている。エリック・ロメールのために設立された製作会社ロザンジュ。ロメールのコンスタントな活動を支えただけでなく、製作難に苦しむ70年代リヴェットに手を差しのべたロザンジュに、「ヌーヴェル・ヴァーグの精神」の体現をジャン・ドゥーシェは見ているが、その設立に協力し、第一弾作品『パリところどころ』(1965)の製作にも関わったコトレルは、まさにヌーヴェル・ヴァーグのコアの部分にいた人物でもある。ロザンジュの設立、ユスターシュとの共犯関係、そして、渡米直前のヴェンダースの一連の作品への関与。コトレルのキャリアを辿ることで浮かび上がるのは、ヌーヴェル・ヴァーグからヴェンダースへと至る、ある時期のシネフィリーの系譜の王道であり、彼の人生の軌跡はそのまま、その中心線として描き出すことができるのである。
筆者のインタヴューに答えてコトレルは、もう20年来、製作の仕事には携わってはいないこと、ただしロメールと製作側との関係を取り持つために『グレースと公爵』(2001)の現場に駆り出され、そのためにクレジットが残っていること、将来、もし自分が製作する機会があれば、それはアジア映画になるだろうことなどを語ってくれた。そして字幕翻訳の仕事はずっと続けているということも。ピエール・コトレルその人のキャリアは、監督の影に隠れてしまうプロデューサーという役割のためか、これまであまり注目されてこなかった。しかし彼の活動を再検討し、その映画史における重要性を真っ当に評価することは必要だろう。ロジャー・コーマンの自伝に登場する「フランスのプロデューサー」、ヴェンダースや『パリところどころ』の製作現場を回想するパスカル・オビエが口にする「ピエール」、あるいは、アントワーヌ・ド・ベックの綴る「カイエ・デュ・シネマ」誌の歴史の周辺に、ベルナール・エイゼンシッツやバーベット・シュローダーと並んでアンリ4世校の出身者として登場する「ピエール・コトレル」。そしてユスターシュの友人にして、プロデューサーである「ピエール・コトレル」。私たちは、これまでにも多くの場所で彼と出会ってきたのである。
●書評 加藤幹郎著『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006年)
塚田幸光(防衛大学校専任講師)
「映画とは何か」を問うた著者が、「映画館とは何か」を問う。ソフトとしての映画と、ハードとしての映画館。観客が見る対象と、観客が集う場所。両者の関係とは、本来不可分であり、どちらかを欠いても「映画」を問うことはできない。だが、この両者に対し、真摯に向き合う論考は、果たしてあっただろうか。映画論ではなく、映画館論。本書が追求するのは、「映画館とその観客についての文化史」(291頁)である。長らく映画研究の盲点であった映画館論が、本書によって開示される。我々はこの記念碑的著作に衝撃を覚えるだろう。
映画とはある意味で「夢」であり、映画館とは「目を開いたまま夢を見る場所」(281頁)である。映画館の暗闇の中で、観客は基本的に視覚的存在であり、視覚によって想像/創造的な夢の世界に没入する。本書の「はじめに」でパノラマ館が論じられるのは、「パノラマ館も映画館もともに観客を世界の中心に位置づけ、世界を視覚的に統御したいと思う人間の欲望を満足させる装置」(9頁)だからである。パノラマ館とは、いわば映画館の起源である。外界から遮断されたトポスで、観客は視覚的「動性」を獲得する。重要なことはその動性の獲得の仕方だ。パノラマ館内で観客が動くこと、つまりその「身体性」によって、観客は一種の映画的とも言いうる視覚的動性を獲得する。だが映画館は、観客が動くことを禁じ、座席に固定するという「不動性」を前提とするが、映画特有の装置である編集とカメラワークによって、視覚的動性を観客に享受させる。ここにある差異とは、異世界への没入方法の差異でしかない。視覚的動性とは、能動的にも、受動的にも獲得されるものであり、いわゆる「映画館」的なトポスとは、この「動性」が生起するトポスと言えるだろう。
本書は、「理論的予備考察」と題された序論の後、「アメリカ編」と「日本編」に分かれる。以下、内容紹介もかねて順に見ていこう。序論では、映画館と観客の歴史、つまり、映画が観客に「どのように受容されうるのか」(25頁)という「受容史」を問題にする。著者は言う:「映画が映画館(上映施設)という場所への理論的、歴史的考察なしに論じることができないとすれば、それは映画がそれじたいとしては存在しえない」(27頁)。映画を研究する者にとって、この言葉の意味は重い。「映画」研究の核心を言い当てているからだ。映画とは演劇同様、観客と上映される場所との相互依存によって立ち現れる現象である。本書は、このような立場から、場所/装置としての映画館の歴史とその理論的可能性を「四つの水準」から考察する。「映画館(上映装置)」、「映画作品」、「プログラム」、「観客」。場を問い、配給の問題を考え、興行システムを見つめ、観客の振る舞いを解明する。この多面的考察から、映画館と観客の歴史が見えてくる。
第1部「アメリカ編」では、映画受容の多様性と映画館の歴史がクロノロジカルに論じられる。第1章「映画を見ることの多様性」では、前映画館期(1894年頃から1903年頃)における、「実演」と「再現」が共存する特異な映画受容の形態を論じている。特許王エディソンによるキネトスコープの分析はとりわけ興味を引く。映画とは、教科書的に見れば、スクリーンに投影された映像を、同一の場所で、複数の人間が共有する体験を意味する。だが、このリュミエール的映画史観では、キネトスコープを説明できない。キネトスコープは映像を一人で見るものであり、この装置が並ぶパーラーでは、顧客はまるでパノラマ館同様、回遊しながら、異なる映像を自由に享受するからだ。「映画はかならずしも一枚のスクリーンを不特定多数の人間に視覚的に共有させるものではない」(48頁)。この指摘は、本書の重要な軸であろう。一方で、著者の視座は、ハイブリッドなパフォーマンス空間、ヴォードヴィル劇場の分析にも向けられている。前映画館期において、映画は専用の上映空間を持たなかった。見せ物的なライヴ・パフォーマンスの添え物として、映画は上映されていたからだ。実演と再現の共存、一回性のパフォーマンスと、反復性を特徴とする映像の混交。ヴォードヴィル劇場のハイブリッドな文化空間は、ストアフロント劇場からニッケルオディオン(常設映画館)に至るまで、奇妙な変遷を辿りながら、その命脈を保つことになる。
第2章「1905年から30年代までの映画館」では、サイレント期の映画館、とりわけニッケルオディオンとピクチュア・パレス(映画宮殿)に焦点が当てられる。ニッケルオディオンでは、ヴォードヴィル劇場の多様性が継承される。スライド(幻燈機)上映と、ピアノ伴奏による歌手と観客の大合唱に見られるように、サイレント映画は、「観客参加型のライヴ・パフォーマンス・プログラムによって補完されていたのである」(73頁)。映画館は、一種の「祝祭的な空間」(78頁)だった(流入する大量の移民に適合する多様なプログラムは、映画が非均質ゆえに可能であった。移民にとって、映画館とはエスニック・アイデンティティを呼び覚ます祝祭空間というわけだ)。では、このような観客の非均質性は、いつから均質化、言い換えれば祝祭的な位相からの脱皮を図るのか。映画は、古典期(1907年頃から16年頃)への移行に伴い、「物語性」を獲得する。ニッケルオディオンの隆盛から消滅に至るこの時期において、映画は雑多で断片的な映像から、「明確な意志をもった主人公と首尾一貫した物語」(80頁)へと変容を遂げる。映画の長尺化と映写機の複数化によって、観客は映画に参加するのではなく、主人公に感情移入するというように、映画の見方を根本的に変えていくのだ。そして1915年頃からは、豪華絢爛たる巨大映画館が登場することになる。短編映画から長編映画への移行に伴い、プログラムは均質化し、スター・システムが完成する。だが、著者の慧眼は、ピクチュア・パレスの均質性が、必ずしもニッケルオディオンの雑多性と相対するものではないことを見抜く。映画プログラムが整理される一方で、ライヴ・パフォーマンスに重点を置くスタイルは依然として残存するからだ。
第3章「オルターナティヴ映画館」と第四章「テーマパークの映画館」では、トーキー以降に多様化する映画受容史が語られる。示唆的なのは、テレヴィの普及率が急上昇する時期に、ドライヴ・イン・シアターもまた隆盛を極めたという指摘だろう。50年代のドライヴ・イン・シアターは、戦後のベイビー・ブームと連動し、家族のための遊興施設であった。各種イヴェントだけでなく、教会としての役割も果たす、地域住民の相互交流の場であった。だが、このドライヴ・イン・シアターの隆盛は、「映画のテレヴィ化プロセスの一部」(138頁)に過ぎない。つまり、著者の言葉を借りれば、「テレヴィ産業が映画産業に匹敵するまでに成長するあいだ、ドライヴ・イン・シアターが映画をテレヴィのように見ることを可能にする施設として繁栄した」(139頁)からだ。映画館が「自家用化」(139頁)される過渡期の映画館、それがドライヴ・イン・シアターである。
映画を見ることの多様性は、シネマ・コンプレックスの分析からも明らかになる。シネコンが複数の映画を同時上映することは、多チャンネルを売り物とするケーブル・テレヴィや衛生放送との「強い相同性」(156頁)を示す。そして、ショッピング・モール内にシネコンが設置されることで、「映画を見ること」は、「買い物すること」に結びつく。映画のフレームが一種のショーウィンドーとして機能するわけだ(シネコンとショッピングとの関係は、40年代の消費文化が女性を中心に展開したことを想起させる。この時代、女性映画が隆盛を極めただけでなく、映画館やパンフレット、映画雑誌までもが女性の趣向を優先させ、購買意欲を煽っていたからだ)。映画を見ることは、視覚/聴覚的体験だけを意味しない。消費文化に連動した複層的意味を有するのだ。
さらにいうなら、映画はテーマパーク体験をも包摂する。「ヘイルズ・ツアーズ」が好例だろう。1904年のセントルイス万博で発表され、その後、アメリカ東部主要都市の遊園地で関心を集めたこの装置は、「映画を見ること」と「列車に乗ること」を同時に体験できるものであった。映画を見ることで、列車旅行がバーチャル体験できるわけである。今日のユニヴァーサル・スタジオに継承される体感型のアトラクションは、映画の黎明期に起源を持つ。この多様性に我々はもう一度目を向けるべきだろう。
「アメリカ編」の解説が長くなってしまったが、最後に第2部「日本編」を見ていきたい。第2部は第1章「日本映画の問題の傾向と対策」、第2章「映画都市の誕生 ― 戦後京都の場合」、第3章「多種多様な観客」から構成されている。日本における映画館の文化史を辿る点は、アメリカ編と同様だが、「京都」を映画都市の一例として注目し、より専門性の高い議論の核としている点に特徴がある。
サイレント期の日本映画は、弁士の時代と言っても過言ではない。映画作品の長尺化に伴い、弁士の役割は、「前口上」から「前説明」へ、1920年頃からは「中説明」へと移行する。作者と監督と弁士の「三重創作」とも言いうるほど、日本映画における弁士の存在は、「観客の映画受容に多大な影響を与えた」(212頁)のだ。弁士の声色とは、一種の「音曲」であった。「弁士の名調子は、ひとえにその声の表情、肌理、強調された抑揚と音律にポイントがある」(221)。著者の指摘は鋭い。アメリカの映画館において、音楽が重要な意味を担ったように、日本の映画館では、弁士の「声」がいわば音楽を代弁していたわけだ。そして、さらに興味深いのは、弁士が活躍したのとほぼ同時期(1913年頃から17年頃)に、実演(舞台劇)と映画とを結びつけた「連鎖劇」が隆盛を極めたことだろう。サイレント映画がパフォーマンスと相互依存していたことは、世界的潮流である。連鎖劇は、俳優が舞台の上まで進出することで、弁士以上の「身体性」を前景化する。これを日本のサイレント映画の独自性と言うことは可能だろう。また、「小唄映画」も忘れるべきではない。サイレント映画にライヴで歌声をつけることは、日米の映画興行形態の類似点である(男性弁士の声から女性歌手の声(レコード)への移行は、女性観客の存在を再考する契機となるだろう。小唄映画の「ジャンル的形象」(239頁)が、初のトーキー『ふるさと』においても継承されているという指摘も重要だ)。映画は消費文化と無縁ではないのだ。
第2章では、戦後の「都市と映画の相関文化史」(255頁)を探るケーススタディとして、京都市が扱われる。「ひとは何のために映画館へ行くのか」(256頁)。著者の考察は、映画作品それ自体ではなく、映画館を取り巻く複数の環境に向けられる。「近代映画館」とは何か。映画館が「象徴的機能」(264頁)を有することで、観客は「夢」を見る。快適な設備と心地よい雰囲気、毎回定員入替制や景品の導入という付加価値によって、映画館は、「理想の映画館」へと変貌を遂げるのだ。京都市の特殊性は、観客の視座に立つ映画館作りに止まらない。「ロケ地案内」に顕著なように、地元有力紙と地元撮影所、つまりは新聞と映画の二大ミディアの連携によって、京都市全体が一種の映画テーマパークとなる。この「経済的=文化的連携」によって、京都市は「映画都市という想像的かつ実体的な自己像を確立」(278頁)する。都市は、一種の映画館と化す。この幸福な体験は、映画を見ることの究極の姿かもしれない。
本書は、映画館の歴史と観客の映画受容史を論じた希有な著作である。「映画館とは何か」「観客は映画をどのように見てきたか」を問いながら、「映画とは何か」という映画研究の本質を逆照射するわけだ。もちろん、本書が示したアメリカと日本という二つの視座は、研究の入り口であろう。映画と映画館の文化史は、国や地域や時代によってもその姿を変えるからだ。フランスやドイツ、南米ではどうだろう、或いは京都以外の地域では・・・・想像は膨らむ。次のステップは、我々読者に開かれている。本書が誘う映画館の世界は、新書という枠を超えた大きな可能性に満ちているのだ。
●会員消息
- 前回全国大会において会場で入会手続きをなされた西川真由美会員の御連絡先を受付係の不手際で記録しそこねております。学会事務局まで御連絡下さい。
●新入会員紹介
- 名嘉山リサ(琉球大学非常勤講師)アメリカ映画における人種と民族
- 並木浩一(株式会社ダイヤモンド社編集委員)映像文化論