日本映画学会会報第22号(2010年4月号)

●視点 眼球を追って

星野英樹(淑徳大学国際コミュニケーション学部教授)

 眼球。無防備にも露出した脳の一部でもある眼球は、顔の表情を形成する要であるため、コミュニケーション上、きわめて重要な役割を果たす身体部位である。また、映画で表現される人間の身体のなかでは繰り返し過酷な仕打ちにさらされている部位の一つであり、たとえば『アンダルシアの犬』をその典型の一つとして思い浮かべるのは容易であろう。いずれIMDbで身体部位別カット数の検索が可能になるようなことがあれば参照していただきたいが、興行収入の上位を占める人気監督の近年の作品を例にとっても「眼球」もしくは「眼」への執着は世紀をまたぐ昨今においても依然として顕著である。
 たとえばスティーヴン・スピルバーグの『マイノリティ・リポート』(2002)がその筆頭にあげられる。包帯が痛ましい隻眼のトム・クルーズのポスターが端的に表すように、「盲人の国では・・・・」の成語をライトモチーフに、情報と神経の中枢を「眼」のシンボリズムにからめとって描き出したディストピアは暗黒の「眼球譚」だった。クエンティン・タランティーノの『キル・ビルvol. 2』(2004)では、ユマ・サーマンの復讐が裏切り者たちの身体の各部に満遍なく加えられ、「眼球」も格好の標的になる。隻眼のダリル・ハンナが眼帯をして画面に現れた瞬間に、その残された哀れな「眼球」のたどる運命は誰にも予期できるし、実際、過酷な末期を迎える表現で処理されている。生理的嫌悪感を抱かずには直視できない「眼球」への虐待攻撃といえば、これも欠かせない『時計じかけのオレンジ』(1971)のアレックスのあのシーンで有名なマルコム・マクダウェルも出演する『ドゥームズデイ』(2008)のヒロイン、ローナ・ミトラも一方の目を失う設定で登場する。こうした復讐譚に描かれる「眼球」に関する表現はキャラクター形成と密接な関係にあり、身体的欠損がアウトローあるいは復讐の大義名分を与えられたヒーロー、ヒロインの聖性を特徴付けており、紋切り型のキャラクター描写も含めて、視覚に関わる身体の器官が文化的記号として機能していることはどの「座頭市」映画からもうかがい知ることができる。
 『シザーハンズ』(1990)の「手」を挙げるまでもなく、歪曲された身体が重要なエピソードを織りなすティム・バートンの『スリーピー・ホロウ』(1999)も、老木の枝が鈍く輝く月に重なるさまが血管の浮き立つ眼球を想起させ、特殊な眼鏡のために双眸が異様に拡大されるジョニー・デップが「首」の謎解明に挑む姿は、ソーマトロープへの言及も相俟って現実認識と錯覚の問題へ注意を喚起する。『ビッグ・フィッシュ』(2003)の予言もアイパッチをした隻眼の魔女によって語られることで摩訶不思議な雰囲気が生み出されていることは縷述を要しないであろう。
 また、メイレレス監督『ブラインドネス』(2008)は、一幅の古典的絵画の寓意をスクリーン上で再現しようとした大胆な作品であり、突如として視覚を失った人々のパニック状態を通じて見えること、見えないことの象徴的意味あいをアレゴリカルに伝えようとしている。
 アレゴリー関連でいえば、原画のイメージを確認しておきたい衝動に駆られ、実際、そうしてみると、やはり期待を裏切らないスケッチを提供する上杉忠弘氏がキャラクターデザインを手がける『コララインとボタンの魔女』(2009)には、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(1993)同様、森の中を歩く登場人物を平行移動でとらえるシーンがあり、虚と実のあわいを白の背景と漆黒の反転で表現するこの場面は二つの世界を行き交う少女の冒険を描くこの作品の白眉であるが、看過できないのが「眼」の隠喩である。引っ越し先の家の壁にあるトンネルを通じて行くことができるもう一つの世界にいるボタンの眼をした優しげな両親たちから「眼球」をボタンにすげ替えられそうになる少女を見れば、「眼」のメタファーに関心を抱かずにはいられない。この作品で描かれる「眼」の象徴性は多様な解釈が可能であり、「魂の窓( windows to the soul )」なのだ、と説く原作者ニール・ゲイマンの説明も一つの手がかりではある。
 『コラライン』の原画もすばらしいが、スケッチをリアルに立体化させたクリエイターたちの入魂の職人技にも驚嘆する。細部にまで入念な仕上げがほどこされ、呼吸をし始めるかのように見える人形たちを使って、気の遠くなるような手間暇をかけて撮影が繰り返された結果、まぎれもなく生きて動き回るようになったキャラクターたちのすがたにアニメーションの原点、つまり土くれに息が吹き込まれて誕生する生命のプロセスを感じずにはいられない。その意味では『コラライン』のアニメーターは生命を生み出す点で神を代行する創造主と言える。
 ここまで比較的最近の映画に現れる「眼球」あるいは「眼」の隠喩や文化的表徴を渉猟してみたが、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』(2006)やサム・ライミの『スペル』(2009)の「眼球」もまた視覚的演出上の眼目となっていることを付言しておきたい。
 最後に『アバター』(2009)。「眼」を見開く映像で幕を開けるこの作品のストーリーを詳らかにする余裕はなくなったが、遺伝子操作が高度化し、人間の魂を別の生命体に移す神業を科学が代行する近未来に、あたかも映画館の観客のように歩行の自由を奪われ、眼前に立ち現れる映像に「世界」を見ざるをえない状況のヒーローとそれを見つめる観客にとって身体は特別な重みを帯びている。スクリーン上で横たわるジェイクのからだは、アバターという器に息を吹き込む母体であると同時に監督から演出指導の息吹を吹き込まれる生身の俳優の肉体でもあり、重層的に役割が折り重なる媒体と化す。その中でも「眼」が果たす役割は際限なく大きい。その色はもはや民族的なルーツを特定する指標にとどまらず、個人のアイデンティティを保証する複製不能な絶対的淵源であることが強調される。「眼」はいわばスクリーン上の「心臓」であり、瞼の開閉は鼓動にも似て、フィルムという生命体に脈動を与えている。開く眼と閉じる眼が織りなす意識の間断、光と闇のキアロスクーロは、スクリーン上に極めて映画的な雰囲気を醸成している。
 生死をさまよう時の科学者グレースの「眼」の動きには固唾をのむが、結末で主人公ジェイクが見開く琥珀にも似た黄金色の「眼」には、映画の未来が明るく映り込んでいるように見えた。


●新入会員紹介

  • 有江和美(ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ メディアコミュニケーション修士課程)アジア映画(香港、中国、台湾等中国語圏の映画)、香港中国返還に伴う香港映画界、香港映画の変化
  • 鈴木泰恵(国士舘大学文学部非常勤講師)文学(と映画)
  • 水川 毅((株)電通/東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程)映画制作人材のネットワーク分析
  • 山田知佳(日本大学文学研究科ドイツ文学専攻博士後期課程)ドイツ無声映画