日本映画学会会報第19号(2009年9月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • きたる12月5日(土)、京都大学で開催される第5回全国大会のプログラムが学会HP上にオンラインされましたので御報告致します。つきましては配布物、学会誌など用意する部数の都合がありますので、当日出席頂ける方は11月15日(日)までに学会事務局まで御連絡下さいますようお願い致します。その際、メールの件名は「大会出席」でお願い致します。欠席される場合は御放念下さい。大会会場でお目にかかれることを楽しみにしております。なお大会プログラムなどは経費節減のため郵送致しませんので、HP上から必要箇所を印刷して御持参下さい。
  • 御所属、御連絡先(e-mail addressや御住所など)の御変更があれば学会事務局まで速やかにお知らせ下さい。

●視点 The Mean Mongolianについて

芝山 豊(清泉女学院大学人間学部教授)

 四半世紀以上昔、映画館の薄暗がりの中でスクリーンに流れるエンドロールのクレジットを眺めていると、突然The Mean Mongolianという役名が目に飛び込んできた。上映されていた作品はスティーヴン・スピルバーグ監督『レーダーズ 失われた聖櫃』(Raiders of the Lost Ark, 1981)である。
 これまで「村上春樹とモンゴル」のようなモンゴルに対するオリエンタリズムを扱った一連の文章を書いてきたが、このThe Mean Mongolianについて書く機会は未だなかった。この場を借りて少し考えを述べてみたい。
 場違いなネパールの酒場に唐突に現れ、カレン・アレン扮するヒロインにあっけなく殺されてしまうこの人物について、内的特徴は描写されない。場所柄登場するThe Ratty Nepalese、The Giant Sherpaと並べられているところを見るとmeanは外見上の特徴だろうが、この場面では主人公たちも含め、登場人物は誰もそれほど小奇麗だとは言い難い。悪党1、2、3ではなくわざわざ民族名を役名としているのはそれなりの意味があると考えてよいだろう。ネパールのローカルズとは言えそうもないモンゴル人の場合、meanの外見以外の意味、邪悪で欲深く、卑劣残忍という意味においては個人の属性というより集団のステレオタイプ理解と関連づけられていると考えた方が腑に落ちる。
 『レーダーズ 失われた聖櫃』については、90年代の初め、エラ・ショハットがアメリカとユダヤの連帯を強調して旧約聖書的神話を犠牲の歴史から解放したファンタジーだと評している。確かにこの作品における善悪の二項対立はナチスの敵か味方かという一点にしかない。ショハットの言う「隠されたユダヤ民族性」高揚映画の中のモンゴル人はナチスの手先であるが故に邪悪な存在なのである。
 しかし、映画の設定の1936年当時、モンゴル人民共和国はソ連と同盟関係にあって反ナチスであったし、南の内モンゴルは中国国民党政府の支配下にあって独立を得てない。東部モンゴルは、当時、満洲国に編入され、日独防共協定を結んでいた日本の実質的支配下にあったわけだが、ネパールから一番遠い彼らも日本と完全に一体化していたわけではなかった。従ってこの映画に登場するモンゴル人は現実の地政学的関係から逸脱した西洋語の中のmongolの最も広義の用法、つまり、日本人も含むモンゴル「人種」の邪悪さの視覚化だと言えるだろう。
 ソロビヨフやウィルヘルム2世の黄禍論や1936年時点での歴史的事実からすれば、ナチスと結びつく「汚く邪悪な黄色人種」は日本人の方が相応しいのだが(1980年代当時のマーケティング上の日本への配慮は別にして)、何故モンゴル人でなければならなかったのか?その理由に注目してみたい。
 まず、ひとつには差別語としてのmongolの用法。Down syndromeに対する用法の他に、スパイク・リー監督の『ジャングル・フィーバー』(Jungle Fever, 1991)の台詞に登場するような用法がある。即ち「黒人」と「白人」の間に生まれた人間、さらに様々な意味において「ハイブリッドな人たち」への蔑称としてのmongolである。モンゴルは非純血、非正統で汚らわしく邪悪なものの記号である。サイレント時代の連続活劇調の娯楽作品を作るにあたって「ナチ野郎と野蛮人」の組み合わせを作るためにスピルバーグが選んだのは「人種」区分のモンゴル系の俳優ではなくSonny Caldinezという西インド諸島トリニダード出身のモンスター役を十八番とする俳優であった。スピルバーグも意識していたであろう『バグダッドの盗賊』(The Thief of Bagdad, 1924)の監督ラオール・ウォルシュがモンゴルの王子役に上山草人を選んだ基準とは異なる選択基準があったことが窺える。
 もうひとつは《ヒットラー=邪悪な征服者、邪悪な征服者=チンギス・ハーン、チンギス・ハーン=モンゴル人》という一種の連想ゲームである。The Mean Mongolianの登場で、これらの連想を逆にたどって、観客はヒットラーの世界征服をチンギス・ハーンの世界征服に重ね合わせるのである。
 実際、チンギス・ハーンの時代、ハイブリッドな集団として形成されたモンゴルという民族はユダヤ人に限らず、ある民族を根絶やしにしようというような思想を一切持たなかった。教育熱心なスピルバーグが寓話を分かり易くするために用いた世界征服のイメージは若い世代、とりわけ、9・11以降の世代の世界認識にとって躓きとなるだろう。しかし、そんなことはお構いなしのハリウッド的紋切り型(cliche)はヒットラーとチンギス・ハーンを重ね合わせる。その裏にはさらに重要な機能が隠されている。
 冷戦時代、ハリウッド映画は時代劇からサイバーパンクものまで、有象無象の敵役に残忍なチンギス・ハーンの影を見せてきた。しかし、一方でアメリカの強さの象徴、ジョン・ウェインにチンギス・ハーンを演じさせている。核実験で汚染された砂漠での撮影がウェインの命を縮めたことで有名な『征服者』(The Conqueror, 1956)は極めて象徴的な作品である。チンギス・ハーンとその息子たちは東アジアから中央ユーラシア、さらにヨーロッパの一部まで、実に多様な集団をモンゴルの名前の下に統一し、その軍事力を背景にして平和と世界市場を形成した。パクス・アメリカーナをパクス・モンゴリカの再来と見れば、チンギス・ハーンの大モンゴルはアメリカの「帝国」的陰画なのである。
 チンギス・ハーンへの憧れということでは小谷部全一郎から尾崎士郎、井上靖、角川春樹と連綿と繋がる系譜を持つ日本も引けを取らないのだが、第二次大戦後のアメリカにとって、日本とは違った意味でチンギス・ハーンは抗いがたい魅力に富んだ存在なのである。それは次の例に遺憾なく示されているだろう。
 日本でも人気のあるTVシリーズ『ザ・ホワイト・ハウス』(The West Wing, 1999-2006, NBC)の第5シーズンに”The Warfare of Genghis Khan”と題された回がある。アメリカでは2004年の2月に放送されたこのエピソードではインド洋で核使用の兆候が確認され、マーティン・シーン演じるバートレット大統領はイラン攻撃の決断を迫られる。結局、核使用はイランによるものではないことが明らかになるのだが、イスラエルとの核武装の議論の中で理想の大統領(リベラルなカトリックで家族愛に満ち、古典的教養と芸術理解に富んだノーベル賞受賞経済学者、しかし日本人とその賞を分け合ったことには不満を抱いている)は「マンハッタン計画」の主要メンバーの一人でトルーマンの水爆開発に反対した物理学者ハンス・アルプレヒト・ベーテの言葉を引用する。
 「たとえ、我々が水爆を使って勝利したとしても、後代、歴史が記憶に留めるのは、アメリカがどんな理念のために戦ったかではなく、ペルシャの住民を根絶やしにした野蛮なチンギス・ハーンと同じ戦争をしたということだろう。」
 19世紀ならJ・ブルクハルトのような碩学でさえモンゴルの野蛮を信じて疑わなかった。しかし、チョーサーの時代、西洋世界にとってチンギス・ハーンは聖王の名であったし、事実として彼は2回の原爆投下に匹敵する虐殺など行ってはいない。アメリカではそれを承知で「帝国」の暴力性を「野蛮なモンゴル人」に背負わせて、自らはその「文明性」故に免責されるという、独創的な《チンギス・ハーン利用法》を発明したのである。
 『レーダーズ 失われた聖櫃』のラストは『市民ケーン』へのオマージュらしき、無数の箱が並ぶ倉庫に封印された聖櫃が保管される場面である。それは上述のベーテも結局は手を貸すことになった恐るべき災厄をもたらす究極の力をアメリカ軍だけが所有することの正当性へ観客を誘うのである。
 牽強付会の誹りを恐れずに言えば、この映画の物語の正当性を担保するためにはユダヤの神話と地政学のアレゴリーだけでなくオリエンタリズムによって捏ねあげられたThe Mean Mongolianの登場が不可欠だったのである。
 モンゴル人に対するオリエンタリズムはハリウッド映画に限ったことではない。古典の誉れ高いフセヴォロド・プドフキンの『アジアの嵐』(Potomok Chingis-Khana, 1928)から、最近、浅野忠信が覚束ないモンゴル語でチンギス・ハーンを演じた『モンゴル』(Mongol, 2007)に至るまで、枚挙に暇がない。最近、特に気にかかっているのはほかならぬモンゴル人たち自身の中に潜むモンゴル人に対するオリエンタリズムの問題である。こちらの分析はスピルバーグ作品のそれより遥かに厄介で骨の折れる仕事になるだろうが、いずれ稿を改めて論じる必要があると思っている。


●新入会員紹介

  • 周 イエン(京都造形芸術大学大学院博士後期課程)張芸謀映画に見られる女性表象
  • 須川まり(京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程)映画産業論
  • 都 仁仙(東北大学大学院国際文化研究科博士後期課程)在日コリアン映画論/表象文化論
  • 宮下忠也(同志社大学大学院アメリカ研究科博士後期課程)映画美術(美術監督)/日米文化交流/視覚文化論