日本映画学会会報第17号(2009年3月号)

●視点 黒澤映画を支え続けた野上照代氏との対談から得たもの

影山貴彦(同志社女子大学学芸学部准教授)

 去る2008年11月1日、勤務先である同志社女子大学の講座企画として、黒澤明監督をスクリプター(記録)等の立場で支え続けた野上照代氏との対談をする機会に恵まれた。
 野上氏のプロフィールを以下に簡単に紹介する。

 1927年、東京都出身。戦後、雑誌記者を経て大映京都の記録係となり、1950年に『羅生門』で黒澤映画監督と出会う。その後、東宝に移り、1952年の『生きる』以降の黒澤全作品に参加。そのかたわら、広告代理店でCM制作を手がける。1984年、『母べえ』で読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞の優秀賞を受賞(受賞時のタイトルは『父へのレクイエム』)。同年、山路ふみ子賞功労賞も受ける。2008年、『母べえ』が山田洋次監督により映画化される。

 自分自身、前職がテレビマン(毎日放送)であったこともあり、かなり多くの方々と仕事をご一緒した。小学校に上がる前の子役から大御所の大女優まで。数だけでいえば1000人は下らないだろうと思う。だが今回はいささか勝手が違った。私、いや多くのテレビマンにとって映画という媒体、そしてそこで日々の生活を営んでいる人々は、率直に申し上げて「憧れ」の対象なのである。普段、分ったような顔をして、大学等でメディアを論じ、語ってはいるが、仕事相手がアカデミズムの世界の人間ではなく、メディアの内側にいる人々、特に今回の野上氏のような人物との対談ということで、正直、かなり前から少なからず興奮し、緊張もしていた。『羅生門』以降、ほぼすべての黒澤映画に携わってきた人物、いわゆる黒澤組の真ん中にいた方と対談をすることが信じられない思いで一杯だったのだ。もし、私がメディアと全くつながりがなく、例えば法学を専門とする大学教員であれば、こうした感情が湧くことはなかったであろう。逆に、私が映画の世界の隅っこにでもいて、「同業者」としての視点から語ることができる人間であれば、また違った感情が生まれたことであろう。いずれにしても、私の中にあったこうした感情はコンプレックスという類のものなのであろうか?そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ私にできることは、改めてきちんと黒澤映画を観直して、野上氏の著書を熟読する、ただそれだけであった。この予習作業は、私にとって図らずもとても楽しいものになった。論文あるいは学会での口頭発表をするために、資料収集として映画を観ることとは違う喜びがあった。それは、多くの観客がそうであるように、シンプルに映画を楽しむためだけにスクリーンを眺める行為とはもちろん違うのだが、エンターテインメントという言葉に相応しい感情が自分の中を占めていることに気がついたのである。もしかすると、母と息子以上に年齢の離れた野上氏から、なかなかこの若造やるじゃないの、とばかりにお褒めの言葉のひとつでも頂きたいという非常に幼稚な思いも含まれていたのかもしれないが。
 さて、対談はとても和やかなものとなった。論を投げかけるという形でなく、野上氏の胸を借りるつもりで臨んだことが幸いしたのだろうか。映画論のぶつかりあいを期待した観客もいたかもしれない。が、映画というものはもう少しシンプルに語られてしかるべき、直接そうした言葉を交わしたわけではなかったが、野上氏からその類のニュアンスを話の随所に感じ取ることができた。「出会い」をキーワードに対談を進めようと目論んでいた私は、黒澤明監督との出会い以前の伊丹万作監督、そして息子である伊丹十三監督との出会いについても、それは偶然ではなく、必然であったのではなかろうか、という言葉を発してみた。野上氏はにこやかに微笑んでいたが、伊丹万作監督にあてた何通もの手紙を野上氏が送ることがなければ、間違いなく黒澤明監督との出会いはなかったわけである。もちろん、東宝の労働争議のあおりで黒澤監督が大映京都撮影所に来ることになったのは偶然かもしれない。だが、当時スクリプターの道を歩みつつ、子供時代の伊丹十三監督の面倒をみていた野上氏が大映京都にいたことは決して偶然で片付けられないものを感じさせるのである。
 「私が今こうしていられるのは、黒澤さんの御蔭です」
野上氏は講演でそう語った。同時に、講演に先んじて放送されたNHK(BS‐2)のドキュメンタリー(「よみがえる巨匠の製作現場 ― 野上照代の記録した19本の黒澤映画」)のエンディングにおいて、「もう少し(黒澤監督に)優しくしてあげればよかったと思う」と語っている。私はこのテレビのインタビューでの野上氏の言葉にとても感動していたので、素直に対談でその旨を伝えた。天皇とまで言われた黒澤明監督に対して、「優しくしてあげればよかった・・・」そんな言葉を発することできる人物は黒澤組の中に、いや、黒澤監督に関わった人々の中において決して多くはなかったことだろう。野上氏は次のようなエピソードを紹介してくれた。上記のドキュメンタリーにおいても紹介されていたので、ご記憶の方もあるだろうが。雨が降る中、ほんの雨宿りのつもりで、黒澤監督と野上氏はあるバーに入ったという。ちなみにそのとき監督は財布を持っておらず、「私がおごります」という野上氏に随分気を遣っていたという。その店の中で黒澤監督は、
 「僕のことをヒューマニストなんてみんな言うけど、それは違う。僕はセンチメンタルなんだ」
と野上氏に語ったという。ヒューマニスト、センチメンタルという表現がこの場合最適かどうかはわからない。だが、黒澤監督が云わんとするところは確かに伝わってくる。私は対談の場で、この話をした黒澤監督はもちろん、そうした話を引き出すことのできる野上氏に対して凄いと思う、という旨の話をした。無論、それはリップサービスではなく、心から湧き出た言葉であったことは言うまでもない。こうしたエピソードと、野上氏が19本もの黒澤映画に関わってきたという事実は大いに関係があるに違いない。対談ではテレビについても話が及んだ。昨今のテレビに対する苦言も呈しておられた。立場上難しい部分もあったが、私自身全くといっていいほど反論しようという気にならなかった(とても珍しいことなのだが)。そうしたところも彼女の魅力なのであろう。
 正直、あっという間の対談であった。映画とテレビというメディアは似ていて非なるものであると、テレビの内側にいた人間としても認めざるを得ない。だが、ものを作るということに関しての共通項も決して少なくはないのだ、ということも確認できた。かけがえのないひとときであった。


●書評 加藤幹郎編著『アニメーションの映画学』(臨川書店、2009年)

佐野明子(京都造形芸術大学非常勤講師)

 本格的なアニメーション研究の出版をまずは何よりも喜びたい。本書は、タイトルが示すとおり、広く古今東西のアニメーションを対象に、映画学の観点から分析を行う6本の論文を収めた論文集である。6本のうち、2本は英語論文の日本語訳、4本は日本語論文で構成されている。日本においてはこれまで概論や通史の紹介や、日本のアニメーションに関する仕事は徐々に蓄積されてきたが、国内外の短編やインディペンデント作品を含むアニメーション全般に目を配り、新たな視座を開拓するような研究書はそれほど多くはない。英語圏でのアニメーション研究の拡張や深化に比して、日本でのそれは遅れているとみなさざるをえない現在、本書をきっかけに、アニメーション研究に対する関心が多様な広がりを見せてくれることを期待したい。
 以下に、各論文の内容を紹介していく。
 今井隆介「<原形質>の吸引力」(第1章)は、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインのディズニーに関する論考を整理して、歴史の中に位置づけて理論としての整合性を検討し、アニメーション一般に応用する可能性を論じている。エイゼンシュテインの論考の要旨は以下のようなものである。ディズニー作品のキャラクターの柔軟で伸縮自在な身体のような「どんな形式にもダイナミックに呈することができる能力」、すなわち「原形質性」は人を魅了する「吸引力」になる。なぜなら原形質的な形象は、人の意識を「前論理的で感覚的な思考」(幼児的で原初的な思考)へ回帰させ、人を理性から解放して論理と合理を一時的に「忘却」させるからである。論考はアニメーションに限らず、ダリや浮世絵などの絵画やシェイクスピアやホメロスの文学、炎の可変性や「放火狂」の心理など現実の事象も対象にして、人が形式そのものを感覚するメカニズムの解明を試みている。重要な示唆に充ちた刺激的な論考だが、全訳は未だ出版されていない。本論文は現時点において、エイゼンシュテインのディズニー論を最も詳細に紹介し検討する日本語文献となっている。
 土居伸彰「柔らかな世界」(第2章)は、エイゼンシュテインの「原形質性」の論考を手がかりに、ライアン・ラーキン作品を始め、物語やキャラクターが存在しないアニメーションのもつ可能性について検討している。ラーキン作品のように具象/抽象を問わず流動的に様々な形象へ変容する表現に対し、「実験」や「商業」など従来の枠組みから離れ、アニメーション表現の「原形質性」に焦点を当てる。エイゼンシュテインの論考で「原形質性」はキャラクターの一貫性のある形象を指すが、本論文ではより射程を拡大し、いかなるものにも変貌を遂げるアニメーションそのものがもつ可能性と捉え直す。そうした原形質的な表現は、常に変容し運動する外部世界と作家との衝突を描き出し、「生きていること」そのものの表現となることを、ノーマン・マクラレンやレン・ライ、ユーリー・ノルシュテインなど作家達の製作過程や発言を参照しつつ示していく。本論文はこれまで高い評価を受けながらも殆ど論じられなかった短編アニメーションに注目し、論考を展開していく意義を示している。
 加藤幹郎「風景の実存」(第3章)は、映画(アニメーション、実写を問わず)研究において看過されてきた風景の表象の問題に着目し、アニメーション映画作家・新海誠の風景表象の新しさについて探究するものである。新海誠の作品は、キャラクターと風景を切り離し得ないものとして一体論的に創造し、実写映画ですら不可能であった風景の実存を可能にしたものであることが、おもに『秒速五センチメートル』に対する精緻なテクスト分析を通して検証されている。具体的には、実写映画における風景と物語の関係性をふまえたうえで、新海誠の作品で際立つ雲の風景(クラウドスケイプ)および白のイメージの主題系をとらえ、そうした風景の機能を浮き彫りにしていく。風景はたんなるスペクタクルではなく、そのなかで人間が生きている空間として相互作用的関係を人間とのあいだに構成するものとなり、人間の情動のドラマを産出する機能を果たすことが明らかにされる。本論文はアニメーション論や作家論に限らず、映画学における風景表象のトポスの可能性を明らかにし、風景の表象論の重要性を示す点においても意義深い。
 横濱雄二「複数形で見ること」(第4章)は、日本の商業アニメがメディアミックスと呼ばれる複数の媒体へ展開していく現状のなかで、メディアミックス「作品」のとらえ方について考察している。メディアミックス「作品」の読解にさいし、従来はキャラクターに注目する方法がとられていたが、そこに「物語世界」という水準を加える方法を筆者は提唱する。ここでは複数のジャンルが交差する作品では複数の物語世界が並存しうるという立場をとり、物語世界とキャラクターの生成変化をとらえることに主眼をおく。具体的には新海誠の『ほしのこえ』と『新世紀エヴァンゲリオン』それぞれに対し、「作品」の広がりを物語世界を通じて把握して、各メディア間の詳細な比較分析を行うことで、メディアミックスのもつ潜在的な可能性を示す。キャラクターという固定的な要素に、物語世界という変動的な要素を交錯させ、より立体的な読解を促すという視点が興味深い論考である。
 バリー・ソルト「ミッキー・マウスの息吹を計ること」(第5章)は、おもに1940年代までのアメリカのアニメーション映画を対象に、計量分析をほどこして数値的にとらえる試みである。アニメーションにおける運動の充実度を計るために、まずコマの総数に対する絵の枚数を比率として割り出す。そのさい一コマ撮りの使用率だけでなく、止め絵や実写の扱いにも目を配り、アニメーションの運動の複合性を的確に記している。さらにキャラクター等の運動の大きさを、フレーム内の運動領域として計測する。このようにして運動の充実度が浮き沈みしつつ変遷する過程を辿り、その高まりを30年代の作品(とくにディズニー短編)に認めている。最後にショットの平均持続時間、逆アングルショット、視点ショットの3点を計測し、実写映画のそれと比較することで、アニメーションのシーン分割の特徴を示す。こうした方法は、数値によって明らかになる重要な側面を例証しており、さらに多角的な議論に応用しうるものだろう。本論文には訳者の川本徹による解題が付されており、これらの分析を具体的かつ的確に記述している。
 顔暁暉「セレクティブ・アニメーションという概念技法」(第6章)は、「リミテッド・アニメーション」というアニメーションのスタイルに対して、「リミテッド(限界のある)」という用語から連想されやすい否定的なイメージを払拭するために、「セレクティブ(選択しうる)」という概念を提唱する論考である。これまでの言説では、滑らかな動きを特徴とするフル・アニメーションと、動きの少ないリミテッド・アニメーションを対置して、後者を下位とみなす傾向にあった。しかし筆者はリミテッド・アニメーションを創造的な表現方法ととらえ、運動を基準とする中立的な分類方法「運動のスペクトル」を提示する。次いで『鉄腕アトム』のケース・スタディを通して、「セレクティブ・アニメーション」とは多様な物語修辞と音響要素によって制限された動きを補い、アニメーションの潜在力を高めるものであることを明らかにする。流動的な運動に着目する今井論文と土居論文に対し、本論文はあらゆる運動を包括的に考察して、流動と不動とを問わず多様な運動がもつ可能性を問いかけている。
 このように本論集は、緊急に求められている課題に確実に対応し、アニメーション研究に一石を投じるものとなっている。教示と示唆に富み刺激的な洞察に充ちた本論集を手がかりに、さらに開かれた議論へ展開されていくだろう。また現在、大学においてアニメーションに関する講義や卒業論文が増加しているため、本書は教員が学生にアニメーションの知的なおもしろさや多角的な研究方法を伝えるための参考書としても適している。さらにより広い層の読者に対しても、慣れ親しんでいるアニメーションの新しい側面や、見たことがないアニメーションの多様な魅力を伝えられるような、議論の明快さと奥深さを巧みにつりあわせている。本論集は今後広く参照、検討され、アニメーションを語る言葉と概念を豊かにしてくれるにちがいない。


●新入会員紹介

  • 大地真介(広島大学大学院文学研究科准教授)アメリカ文学/文学と映画学
  • 鈴木英明(山脇学園短期大学准教授)文学と映画学
  • 長谷川功一(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程映像表現文化論専修)アメリカ映画研究
  • 福原まゆみ(Zoetrope[個人事業])ビリー・ワイルダー論
  • 細野辰興(日本映画学校専任講師/日本映画監督協会会員/映画監督)映画演出論/映像表現論/黒澤明論/今村昌平論
  • 堀 大輔(京都造形芸術大学大学院修士課程)フィルム・ノワール論
  • 松村 仁(株式会社テレビ東京報道局受配信室所属)アメリカ映画史/大衆文化論/キリスト教映画史