日本映画学会会報第15号(2008年10月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • きたる12月6日(土)、大阪大学にて開催される第4回全国大会のプログラムが本学会HP上にオンラインされましたので御報告いたします。大会会場でお目にかかれることを楽しみにしております。
  • なお単行本刊行のために1年前に公募しました論文は、分量的に刊行できるだけの論文が投稿されませんでしたので、機会を改めて企画を立てる予定です。

●視点 映画における風景の発見

加藤幹郎(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)

 映画における風景の表象論は、映画における身体の表象論同様、これまでに十分議論がなされてきたとは言いがたい。その意味でそれは映画学の困難な一領域である。映画に先行する他の視覚的媒体、たとえば絵画においては17世紀以降、「風景画」はひとつの完成したジャンルとしてさまざまな批評言説の対象となってきたし、「風景写真」という言葉も人口に膾炙して久しい。しかるに「風景映画」ないしは「映画における風景」という言い廻しはきわめて特殊な用語法にとどまりつづけている。「風景映画」と呼びうるものの製作公開じたい、映画史初期をのぞけば、ほとんど例外的な事態である。映画における風景の表象は、その気になれば多様な状況下の人間表象をめぐるほとんど網羅的な注釈一覧となるはずである。にもかかわらず実写映画において風景と人間の錯綜した関係を確定することは一筋縄ではゆかない。千変万化する気象条件下の風景とともに人間をロケーション撮影することは、一般に映画撮影条件のハードルを高くするからである。むろん映画史上、「風景映画」として突出した映画的テクストがないわけではない。列挙しようと思えば、ヨリス・イヴェンスの『雨』(1929)、マイケル・スノウの『中央地帯』(1970)、アッバス・キアロスタミの『ファイヴ ― 小津安二郎に捧げられたファイヴ・ロング・テイクス』(2003)など、すぐれた例はいくらでもあげられる。しかしながら、それらはあくまでも例外的な存在にとどまりつづけている。「風景画」のような確固たるジャンルとして確立されていないがゆえに、「風景映画」ないし映画における風景の表象問題は探究されるべき興味深い問題機制にとどまっている。別に映画学にかぎらず、あらゆる議論はつねに開かれていなければならないはずなのに、アニメーションと実写とを問わず、映画における風景の表象の問題は、これまでほとんど閉じられたままであった。以下に開陳されるのは、映画学における風景表象のトポスの可能性の一部である。
 しばしば誤解されるように、風景と物語は観客によって別個に体験されるものではないということを確認しておきたい。映画において風景と物語は分かちがたく結ばれ、両者はひとつに溶融して観客に視聴覚的情報をつたえ、観客のうちに視聴覚的情動を形成する(風景の経験に即して観客の心的昂揚が生起する)。まずもって風景は柔軟で可塑的な装置であり、それは多様な解釈可能性にゆだねられている。そもそも空間とそこで起きているアクションとは映画において切り離しえないひとつのものである(ホメロスの叙事詩においてすら、すでに風景と物語は結びつけられていた)。そして物語とは他者の経験をまるまる我がことのように生きるひとつの方法の謂である。読者(観客)は物語におのれの潜在的人生を読みとるのである。
 
ここでひとつ、わかりやすい例を取りあげよう。世界映画史上、天分豊かな巨匠として知られるフェデリコ・フェリーニの代表作のひとつ『甘い生活』(1959)における、照応し合うふたつの風景(冒頭部とエンディング)である。ただし分析に入るまえに、ひとつ断っておかなければならないことがある。小論における風景というのは、グランド・キャニオンやナイアガラの滝(トマス・コールの絵画でも瀑布の飛沫を浴びながらの実体験でもよいのだが)のような大地の驚異の景観(ランドスケイプ)だけではなく、都市景観(シティスケイプ)までもふくんだ広義の風景だということである。自然の景観は人間の手によってつねに人工的景観(その最たるものが都市景観であるが)へとつくり変えられずにはおかない。たとえ手つかずの純然たる自然があるとしても、すくなくともそれが人間によって知覚された自然でなければ、それは風景とは呼びえないのだから、広義の風景論にはおのずと大地の景観(ランドスケイプ)から海景(シースケイプ)や空景(スカイスケイプ)まで人間が経験しうる多種多様な景観についてのさまざまな議論がふくまれることになる。
 さて『甘い生活』冒頭部は巨大なキリスト像を吊したヘリコプターの昼間の空景シーンからはじまる。画面の右奥から手前に向かって、ちょうど映画史最初期の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(ルイ・リュミエ-ル、1897)のように(当時は運動媒体の違いから空景ではなく陸景であったが)、同時代を代表する運動媒体が画面を斜行するようにして観客席の方に向かってくる。キリスト像を吊したヘリコプターはまず古代ローマ遺跡上空を通過し、つづいて新興住宅街の上に飛来する。それから一枚岩のごとく屹立する白い団地の壁面にヘリコプターが一瞬黒い影を映しこんで空の回廊を通りぬけてゆくのが見える。地上では子供たちが歓声をあげながらヘリコプターのあとを追いかけている。吊されたキリスト像は眼下に見える都市を祝福するかのように両手を広げている。ついでもう一機のヘリコプター(キリスト像を吊しているヘリコプターを取材しているマスコミのヘリコプター)が林立する高級団地のひとつの屋上で日光浴をしている美女たちの上空を旋回する。 回転翼ローター の騒音にもかかわらずヘリコプター機内の主人公(マルチェロ・マストロヤンニ)たちは身振り手振り口振りで屋上の水着姿の美女たちとコミュニケーションをかわし、自分たちが「 教皇パパ のところ」(ヴァティカン)に行く途中であること、美女たちの電話番号を訊こうとしていることなどが観客にも伝わる(このローターの騒音という人工のサウンドスケイプにおけるコミュニケーションの成立は、後述するようにエンディングの自然のサウンドスケイプと際立った対照を見せることになる)。空中でのこの男女の短い交流場面が終わると、やがてカメラはヘリコプターに吊されたキリスト像の聖顔をクロースアップでとらえ、その視線の先にヴァティカン市国が見えてくるところで、この冒頭シークェンスは終わる。ヘリコプターの速度に応じた眼下の街並みのめくるめくモンタージュにもかかわらず(古代ローマ遺跡から新興住宅街、そしてヴァティカン上空へと)、空の上と下は幸福なコミュニケーションで一体化し、吊り下げられたキリスト像がその上空を通過する空間は無上の至福につつまれているかに見える。いかにもフェリーニにふさわしい物語の明るいはじまりである。
 他方、この冒頭シークェンス(シティスケイプ)と照応するのが、映画のエンディング(シースケイプ)である。そこは徹夜の乱交パーティが終わった、白々と明けた早朝の海岸である。白く泡立つ海波の打ちよせる浜辺に巨大で不気味な魚がかかった漁網が引きあげられ、ひとびとが集まってくる。そのグロテスクな魚は冒頭部の巨大なキリスト像のようにひとびとの注目を集める。しかも波打ち際のその巨大な魚は瀕死の状態である。しかしひとびとはやがてその怪魚にも興味を失い、三々五々、浜辺から遠ざかってゆく。そのとき主人公に呼びかけるかわいらしい少女が遠くに忽然と現れる。しかし主人公は海に流れこむ川をはさんで対岸にいる少女が、潮騒にまぎれて何を言っているのか聞きとることができない。しかもふたりは冒頭の場面(日光浴している水着の美女たちのとき)とはちがって身振り手振りでコミュニケーションをとろうとしても、たがいに意志をかわすことができない。フィルムの表面をなでさするかのような海の音が耳を聾さんばかりのとどろきとなって、ふたりのあいだに立ちふさがる。少女は一瞬困惑した表情を浮かべながらも対岸を立ち去ってゆく主人公を笑顔で見送る。映画はその少女の笑顔のクロースアップで終わる。彼女が主人公に何を伝えようとしていたのかは、そのクロースアップにもかかわらず永遠の謎にとどまる。
 しかしながら、ここで冒頭部とエンディングが完全に照応していることは誰の目と耳にも明らかである。冒頭の都市の風景(シティスケイプ)とエンディングの海辺の風景(シースケイプ)の対比。すなわち人工的風景と自然の風景との対比は明らかである。冒頭、人工物(ヘリコプターのローター)の騒音にもかかわらずコミュニケーションがとれていた大人の男女(主人公)たちとエンディング、自然の騒音(潮騒)のためにコミュニケーションがとれない主人公と不思議な少女との対比。冒頭、ひとびとの注目と関心を集めていた巨大なキリスト像とエンディングで同じように衆目を集める巨大でグロテスクな魚との対比。映画『甘い生活』はこれら2種類の対比的風景につつまれて「甘い生活」にふける人間たちを凝視する。
 もっとも実写映画『甘い生活』では基本的に人間身体を画面の中心におさめ、風景が強調されることは冒頭とエンディングをのぞいてない。後述するように、映画は一般に人間身体の表象に力点をおき、風景の表象に関心をはらうことはない。人間身体を強調する過程において映画史最初期が終わるころ、身体のうち顔のクロースアップがとりわけ特権的な表象対象となりはじめるが、人間の顔の表情のクロースアップは同時に風景の一種となる。人間の顔は、海の鼓動のようにそこに情動的要素が流れこんでいるからである。『甘い生活』が少女の無垢なる笑顔のクロースアップで終わるのは、その意味でも象徴的である。彼女は主人公にも観客にも言いたいことをつたえることはできないが、浜辺の風景にとってかわる人間の無垢なる風景を能弁に伝達している。フェリーニの映画が退廃的な人間たちを描きながら最終的に力強い人間肯定で終わることができるのは、不思議な少女の笑顔のクロースアップのためである。これもフェリーニらしい物語の明るい終わりである。少女の笑顔は望遠レンズでとらえられているため、周囲の浜辺は文字通り(映像通り)ぼやけて(焦点がずれて)、潮騒のなか、自然の風景が少女の顔の風景に融解する。こうして(人間化された)風景と(人間化された)物語はそれぞれ別個に論じられることはありえず、両者は分かちがたく協働して観客のうちに視聴覚的情動を惹き起こす(潮騒のとどろきゆえに主人公と謎の美少女とはコミュニケーションがとれないが、にもかかわらず少女は主人公を笑顔で見送ってくれる)。動的キャラクター(登場人物)と海波(海流)という動的風景とが溶融して提示されるこの場面では、自然の風景と人間(顔の風景)は地と図の二元論的関係に還元できない。両者あいまって脈打つ運動=情動を観客に経験させる。
 多くの観客が従来、その緊密な関係について無頓着であった『甘い生活』の冒頭部とエンディングをこのように読解し直してみると、空や海景といった風景を人間的アクションが展開するたんなる背景とみなす通弊を改めることができる。風景とは、人間がそのなかに投げだされている時空間の混沌を整理するひとつの方法である。風景とは空間嗜好の問題でなく、そのなかにつつまれている人間が(あるいはそれを観察している人間が)それと意識してはじめて姿を現すものである。風景は、そのなかで人間が愚行から啓示にいたるさまざまな経験をする場所である。そのことを示してなおあまりあるフェリーニの手腕には瞠目すべきものがある。
 ここまでのごく短い分析によって映画における風景論の眺望が少しは開けたかもしれない。つまり映画における風景はフレーミングされ、時間とともに変貌し、おのれのうちに人間をつつみこむものだということである。映画における風景とは、そこでアクションが生起し人間の新たなシチュエーションが決まる空間である。とは言いながら、ここまでのわたしたちの風景表象分析はいまだ不十分なものにとどまっている。


●新入会員紹介

  • 今成尚志(一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程)日本映画研究
  • 牛田あや美(日本大学芸術学部PD)映画学
  • 影山貴彦(同志社女子大学学芸学部情報メディア学科准教授)メディア研究(「メディア・エンターテインメント論」)
  • 眞田妙子(東京大学大学院新領域創成科学研究科修士課程)メディア環境学(映画)
  • 土居伸彰(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)アニメーション論エイゼンシテイン論
  • 横濱雄二(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)メディアミックス論/日本近代文学

●Obituary

  • 本学会会員の中村裕英先生(広島大学大学院教授)が本年9月12日に御逝去されました(享年54歳)。心より御冥福をお祈りいたします。中村先生にはフィルム・スタディーズ事典』(フィルムアート社、2004年、共訳)等、多数の御著書、御翻訳書、御論文がありました。