日本映画学会会報第14号(2008年6月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • 第4回全国大会は2008年12月6日(土曜日)、大阪大学にて開催されます。全国大会で個人口頭研究発表(25分発表+10分質疑応答)を御希望の方は本年9月19日までに500字程度の発表概要と仮題をお書きの上、日本映画学会事務局(cinema<atmark>art.mbox.media.kyoto-u.ac.jp [<atmark>に@を代入])までお申し込み下さい。そのさい件名に「個人口頭研究発表」とお書き下さい。

●視点 フリー・シネマという死角 ― 1950年代のイギリス映画の可能性

佐藤元状(慶應義塾大学法学部専任講師)

 スー・ハーパーとヴィンセント・ポーターは、『1950年代のイギリス映画 ― 敬意の失墜』の序で「1950年代のイギリス映画はほとんど未知の領域である」と断言し、その理由として、この時代が「退屈な時代、つまり創造的な1940年代と刺激的な1960年代にはさまれた空白期間」として認識されてきた点に言及している。1940年代はイギリス映画の「もっとも華やかな時代」(チャールズ・ドレイズィン)であったのに対して、1960年代のイギリスは「文化革命」(アーサー・マーウィック)を経験しており、とりわけ1960年代後半の「スウィンギング・ロンドン」は、音楽、ファッション、映画の領域において、華やかなスペクタクルを披露することになった。ハーパーとポーターの目的は、この2つの黄金時代にはさまれたイギリスの映画産業の移行期に注目し、そこに貴族階級を社会統合のシンボルとする1940年代までの古い社会的な敬意の様式の崩壊と反抗的な労働者階級の若者への共感を特徴とする1960年代以降の新しい社会的な敬意の様式の萌芽 ― つまりレイモンド・ウィリアムズの「感情の構造」の変化 ― を読み取ることにあるが、彼らのアプローチはあくまで産業に特化した唯物論的なアプローチであり、個々の映画産業がそれらを取り巻く状況の変化へ応対するやり方の分析を主眼とする彼らのアプローチがどこまでこの時代の感情の構造に肉薄することができるのかを判断することは後学の徒に任されている。
 「この本が1950年代の映画に対して行ったことは、レイチェル・ローの『イギリス映画史』が戦前の映画に対して行ったことと同じである」とある批評家は述べているが、ローの金字塔に並び評される『1950年代のイギリス映画』の卓越した整理能力は、「制作資金調達の政治学」、「ランク・オーガナイゼーション」、「イーリング・スタジオ」、「ABPC」、「ブリティッシュ・ライオン」、「アメリカ・イギリス共同制作」、「ハマー・スタジオ」、「インディペンデント」、「アウトサイダーと一匹狼」、「ヴィジュアル・スタイル」、「検閲」、「聴衆の反応」の明快な章立てに表れている。個別の映画産業の盛衰を徹底的に調べ上げ、明晰にまとめあげるその手腕には敬服するほかない。私の唯一の不満は、彼らの「ニュー・ウェイヴ」およびその前段階の「フリー・シネマ」の位置づけの不徹底さとあいまいさにある。彼らは前者を「インディペンデント」の章で、後者を「アウトサイダーと一匹狼」の章で論じているが、ニュー・ウェイヴの代表的な作品『土曜の夜と日曜の朝』に関しては「叙情的な視覚的リアリズムと階級のアイデンティティと性の快楽への激しい対決的なスタンスが結合している」と肯定的に評価し、「イギリス映画において初めて、労働者階級が上位の階級の承認など気にかけず、彼らが従事する仕事を十全にやり遂げる独自の文化を持っている様子が描かれた」と賞賛を惜しまないのに対して(184)、フリー・シネマに関しては、映画制作者の労働者階級への態度の両義的姿勢を強調し、そこでは「労働者階級は、上の立場からの共感の対象であると同時に、恐怖の対象でもある」と述べて、映画制作者の階級的なエリーティズムを告発している(190)。
 ハーパーとポーターのニュー・ウェイヴとフリー・シネマに対する評価の差異はどこに由来するのだろうか。この2つの映画の運動を概観することによって、その理由を探ってみたい。ニュー・ウェイヴというカテゴリーに含まれる映画を年代順に並べるならば、ジャック・クレイトン監督の『年上の女』(Room at the Top, 1959)、トニー・リチャードソン監督の『怒りを込めて振り返れ』(Look Back in Anger, 1959)、同じくリチャードソン監督の『寄席芸人』(The Entertainer, 1960)、カレル・ライス監督の『土曜の夜と日曜の朝』(Saturday Night and Sunday Morning, 1960)、リチャードソン監督の『蜜の味』(A Taste of Honey, 1961)、ジョン・シュレシンジャー監督の『或る種の愛情』(A Kind of Loving, 1962)、リチャードソン監督の『長距離ランナーの孤独』(The Loneliness of the Long Distance Runner, 1962)、リンジー・アンダーソン監督の『孤独の報酬』(This Sporting Life, 1963)になる。これらの映画の特徴としては、ある種のリアリズムが挙げられるが、それは労働者階級の人々の生活をありのままに描き出す新しい方法と密接な関係にある。ピーター・ハッチングスによれば、「ニュー・ウェイヴの労働者階級のヒーローは、攻撃的なまでに個人主義的で、物質主義的であり、しばしば反体制的であった」(146)が、こうした新しい労働者階級の表象は、労働者の労働と余暇の活動の双方を強調する傾向、性行動のあけすけな表象、婚外交渉や中絶や流産や同性愛といったテーマ、中部地方や北部地方の都市でのロケ、無名の役者や監督の抜擢とあいまって、「イギリス映画の前進」という印象を同時代の批評家に植え付けることになった。ハーパーとポーターが暗示する、反抗的な労働者階級の若者への共感を特徴とする1960年代以降の新しい社会的な敬意の様式は、ニュー・ウェイヴの労働者階級の表象を前提としているのである。
 フリー・シネマは、1956年2月から59年3月にかけてロンドンのナショナル・フィルム・シアター(NFT)で上映された短いドキュメンタリー映画の6つのプログラムに与えられたタイトルに由来する。アンダーソン、ライス、リチャードソン、ロレンザ・マゼッティの4人によって始められたフリー・シネマは、彼らが中心となって作品を発表した3回のイギリスのプログラムと外国の映画監督を紹介する3回のプログラムによって成り立ち、それぞれのプログラムには、マニフェストのかたちのプログラム・ノートが付けられた。初回のマニフェストを引用しよう。

これらの映画は一緒に作られたわけではないし、一緒に上映するという考えもなかった。しかし、一緒にしてみると、私たちはそれらには共通の姿勢があると感じた。この姿勢に内在するのは、自由への信念、人々の大切さへの信念、そして日常の重要性への信念である。

映画制作者として、私たちは映画については個人的でありすぎることはないと信じる。

映像が話しかける。音が増幅し、注釈を加える。大きさは関係ない。完成は目的ではない。

姿勢はスタイルを意味する。スタイルは姿勢を意味する。(『フリー・シネマ』ブックレット)

 「自由への信念、人々の大切さへの信念、そして日常の重要性への信念」は、フリー・シネマの作品全般にあてはまる。とりわけ、アンダーソンの『おおドリームランドよ』(O Dreamland, 1953)、ライスとリチャードソンの『ママは許さない』(Momma Don’t Allow, 1956)、アンダーソンの『クリスマス以外は毎日』(Every Day Except Christmas, 1957)、ライスの『おれたちがランベス・ボーイだ』(We Are the Lambeth Boys, 1959)は、労働者階級の人々の労働と余暇のかたちをリズミカルに淡々と描き出すことによって、労働者階級の日常生活の重要性を訴えることに成功している。フリー・シネマにおいては「労働者階級は、上の立場からの共感の対象であると同時に、恐怖の対象でもある」というハーパーとポーターの見解の偏向がここに浮かび上がる。3回目のマニフェストには以下のような一節が含まれる。「私たちは、あなたたちにこのプログラムを批評家としてでも、気晴らしとしてでもなく、イギリス映画との直接的な関係の中で見てほしい。いまだに現代生活の刺激や社会批判の責任を拒否し、イギリスの全体を形作る伝統と個性の豊かな多様性を排除し大都市の南部のイギリス文化だけを反映している、執拗なまでに階級に縛られたイギリス映画との対比として」。現代の労働者階級の人々の生活をありのままに肯定していこうとするポジティヴな姿勢をここに読み取ることができる。「姿勢はスタイルを意味する」のならば、そして「スタイルは姿勢を意味する」のならば、フリー・シネマのスタイルは、労働者階級のリアルな表象という一点において、ニュー・ウェイヴのスタイルと一致する。実際、フリー・シネマとニュー・ウェイヴの継続性は、アンダーソンやライス自身によって認識されていたものであった。最後のマニフェストには、ニュー・ウェイヴの先駆けとなった『年上の女』への言及のほかに、リチャードソンの『怒りを込めて振り返れ』の予告まで含まれている。「フリー・シネマは死んだ。フリー・シネマ万歳!(Long Live FREE CINEMA!)」という締めの言葉は、字義通りの理解を促す。つまり、フリー・シネマは、ニュー・ウェイヴという新たなかたちをまとって、「長く生き続ける」のである。
 ハーパーとポーターのフリー・シネマへの偏った評価は、10年ごとの時代区分を自由に逸脱するフリー・シネマの変幻自在な活動への無意識的な抑圧という側面を示しているように思われるのである。

引用文献
Free Cinema. DVD. London : BFI, 2006.
Harper, Sue, and Vincent Porter. British Cinema of the 1950s: The Decline of Deference. Oxford : OUP, 2003.
Hutchings, Peter. “Beyond the New Wave: Realism in Britain .” The British Cinema Book. Second Edition. Ed. Robert Murphy. London : BFI, 2001. 146-152.


●書評 田中雄次著『ワイマール映画研究 ― ドイツ国民映画の展開と変容』(熊本出版文化会館、2008年)

山本佳樹(大阪大学大学院言語文化研究科准教授)

 本書は、ワイマール時代とほぼ重なるドイツ・サイレント映画の黄金期を扱った、日本人著者の手になる初の包括的な研究書である。
 本書にはふたつの顔がある。ひとつには、代表的な映画の分析を中心としたワイマール映画についての入門書という顔である。全12章のうち8つの章は作品論にあてられており、そこで取りあげられているのは、『プラーグの大学生』(1913)、『カリガリ博士』(1919)、『死滅の谷』(1921)、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)、『ニーベルンゲン』(1922‐24)、『最後の人』(1924)、『喜びなき街』(1925)、『メトロポリス』(1926)という、映画史に燦然と輝く不滅の作品群である。これらの映画は今日ではDVDなどで容易に鑑賞することができる。かつての世代がゲーテやトーマス・マンの翻訳書によってドイツ文学に導かれたように、これからはラングやムルナウの映画に感銘を受けてドイツ映画の研究を志す人たちが出てくるであろう。本書はそうした人たちにとって格好の道案内となるにちがいない。個々の作品論においては、政治的・経済的背景、文学・演劇・美術との関連、舞台装置や撮影技法の特色、字幕の機能などが解説され、作品の構造が分析され、解釈が施されていく。精神分析と経済という観点から作品を読み解いた『吸血鬼ノスフェラトゥ』論、3つの編集版を比較した『ニーベルンゲン』論など、解釈の方法論は作品に応じて柔軟である。クラカウアー、アイスナー、サドゥールといったオーソドックスな文献が批判的に検討を加えられたうえで下敷きにされつつ、近年の映画研究の成果も取り入れられている。本書の読者は、ワイマール映画についてのスタンダードな知識を手にいれながら、映画研究が持つさまざまなスペクトルを目にすることができるのである。
 本書のもうひとつの顔は、「ドイツ国民映画」という概念を軸として、ワイマール映画史を新しい光のもとで見直そうとする、ユニークな専門書という顔である。ここでいわれる「ドイツ国民映画」は、国を単位とした映画史記述のひとつとしての英語の“German national cinema”よりも狭義であり、また、ナチ時代に授けられた最高の評語(プレディカート)である“Film der Nation”とももちろん別ものである。筆者の知るかぎり、本書の「ドイツ国民映画」という概念は独自のものであり、フロドンの『映画と国民国家』を参照しつつ、およそ以下のような意味で用いられていると思われる。すなわち、(1)ドイツ人の国民アイデンティティの構築に寄与し、(2)ロマン派やゲルマン神話などのドイツ的伝統を受け継いだ、(3)芸術的価値を有する映画、といったものである。本書で扱われた時代の範囲では、それは、第一次大戦前夜のナショナリズムの高揚期に萌芽を持ち、敗戦と政治的・経済的混乱の時代に大きく花開いて、1920年代半ばのワイマール共和国安定期を頂点に徐々に衰退していく歴史的現象ということになり、美学的観点からいえば、ほぼ表現主義映画に対応することになる。しかし、たとえば本書で「ドイツ国民映画」の頂点とされる『ニーベルンゲン』は、必ずしも表現主義映画のとび抜けた典型とはみなされないであろうから、両者にはやはりニュアンスの違いがあることがわかる。この「ドイツ国民映画」という概念を導入することによって、本書は、ワイマール時代中期以降の「ドイツ映画のアメリカ化」というよく知られた事象を捉え直し、国民映画対ハリウッドという構図のなかに位置づけていくのである。『最後の人』の唐突なハッピーエンド、『喜びなき街』で、アスタ・ニールセンの表現主義的な悲劇と並行して進行する、グレタ・ガルボのハリウッド的メロドラマ。アメリカ受けを狙う野心が、「ドイツ国民映画」を内部からしだいに侵食する。そして、ニューヨークの摩天楼とネオンサインが着想のもとになった『メトロポリス』の製作費が高くつきすぎたことが一因となり、ドイツ最大の映画会社ウーファは、1925年12月にパラマウントとメトロ・ゴールドウィンの2社とのあいだにパルファメト協定を結ぶ。これによってウーファは、融資を受ける代わりに、ドイツ映画界へのアメリカの介入に大幅に譲歩せざるをえなくなる。本書の最後の2章は、このパルファメト協定をめぐる考察に捧げられており、第11章ではパルファメト協定締結の経緯とドイツでの反応が、第12章ではハリウッドに引き抜かれたドイツの映画人たちの仕事ぶりや作風の変化が、それぞれ詳述されて、アメリカとぶつかりあうなかで「ドイツ国民映画」が変容していく過程が克明に跡づけられる。
 「あとがき」によれば、1988年から始まり20年間続いた熊本大学の総合科目「映画文化史」での講義が、本書の構想の母体になっているという。いまとは異なり、1988年にはまだ、ワイマール時代のドイツ映画の視聴はけっして手軽なことではなかったはずである。さらに、フランクフルト学派の文化産業批判の影響などもあって、ドイツ本国でもアカデミックな場での映画史研究は立ち遅れ、1980年代になってようやく活性化したことを考えあわせれば、著者の先見の明にあらためて敬服の念を禁じえない。本書は、それ以来長い年月をかけて熟成したものであり、その間に著者がドイツ各地の映画博物館で収集した貴重な資料が随所に生かされている。まさに労作の名にふさわしい1冊である。


●新入会員紹介

  • 川村亜樹(京都産業大学文化学部特約講師)現代アメリカ文学/文化
  • 神戸尚子(京都大学大学院教育学研究科修士課程)映画演技研究