日本映画学会会報第11号(2007年11月号)

●学会誌『映画研究』第2号の編集を終えて

杉野健太郎(信州大学人文学部准教授)

 日本映画学会学会誌『映画研究』編集委員会の編集委員長を務めさせていただいている杉野と申します。優秀な編集委員のまとめ役をさせていただいている次第です。今年も審査を無事終え、創刊号に引き続き第2号の刊行を待つばかりになりました。映画の先行研究が日本でますます増えていくことに喜びを禁じえません。
 さて、日本映画学会会報第6号(2006年11月号)ですでにお伝えしました通り、レフェリー制学術誌である日本映画学会学会誌には、審査の公平性および執筆者の育成という二つのシンプルな理念あるいは方針があります。規程は、この方針が反映されたものになっております。審査の公平性を保証するために、投稿規程に記されている通り、匿名審査を行っております。また、その公平性を徹底するために、執筆者・共著者や主指導教員など、被審査論文と深い関わりがある者がその当該論文の審査を行なうことがないように配慮しています。執筆者の育成を保証するための方策としては、編集委員会は審査結果に審査員のコメントを付し、そのコメントを参考に完成ファイルを作成するための期間が採用論文投稿者には許されています。審査終了後は事務局の所掌になりますので正確には把握しておりませんが、今回も、3週間程度の完成ファイル作成期間があったと思います。
 次に第2号の審査に関してです。今回の第2号には7編の投稿があり、6編が採用とあいなりました。審査方法に関して申し上げれば、前回は編集委員全員がすべての論文を査読するという方法を取りましたが、今回は、今後の投稿論文数の増加の見込み、審査期間および編集委員の負担などを考慮に入れ、1論文につき最低2名の主査読者を決めるという方法へと微修正しました。創刊号と同じく、審査員(今回も編集委員以外への審査の依頼は行ないませんでした)は一定の期間を経てそれぞれの査読結果を持ち寄り、最後に一定の合議期間を置いて討議し、全投稿論文の審査結果を慎重に作成いたしております。査読結果において採否が割れた論文に関しては合議期間においてさらに慎重に採否などに関して討議することになりますが、先回と同じく今回も、査読結果においてもその後の合議期間においても各論文の採否に関しては意見の不一致はまったく見られませんでした。今回採用になった論文は、前回と同じく、細部に異議申し立てはあっても、研究論文の資格をそなえるとともに一定以上の説得力を持つ論文だと言えます。ただ、本や学位論文と異なり分量に制限がある学術論文ではすべてのトピックやテーマを論じることはできません。したがって、映画論文にふさわしく焦点をより明確に絞る必要がある論文が多かったかなというのが、今回の投稿論文に関して編集長が最も強く感じたことです。
 今回の審査は以上のようなものでしたが、審査方法の具体的手順は必要に応じてより適切なものに変えていくことに編集委員会一同やぶさかではありません。当然ながら、学会の発展に応じて、手順を大きく変えなければならないことも将来はあるかと思います。さっそく、規程に関しましては、次号に向けての一部変更がございますので、ご遵守の方なにとぞよろしくお願い申し上げます。もちろん、編集委員会といたしましても至らない点があると思われますが、その場合はご意見およびご指導ご鞭撻ならびにご協力いただければ幸いです。いずれにせよ、先回も申し上げましたが、学会誌『映画研究』は、本学会および日本における映画研究とともに発展していきたいと願っております。外国においてと同様に日本においても先行研究の蓄積ができ、またそれに挑戦する研究者が次々に登場するという輝かしい未来を期しながら、数多くの投稿を心よりお待ち申し上げております。


●映画評 郭亮吟/藤田修平『緑の海平線』(2007年、60分)

溝渕久美子(名古屋大学大学院博士後期課程)

 日本映画学会の会員である藤田修平氏が、台湾公共電視のディレクターでありプロデューサーである郭亮吟氏とともに、1本のドキュメンタリー映画を発表された。この映画は「歴史」を記録したものである。しかし、ここには教科書でその個人名が扱われるような人々は登場しない。むしろそうした人物たちはこのテクストからはその存在が視覚的にも聴覚的にもほとんど排除されている。それに代わり、ここで焦点が当てられるのは、戦時中の2年間に台湾から日本に渡り、戦闘機の製造に従事した少年たちである。日本ではすでに忘れ去られ、ほとんどその存在を知られていないであろう台湾少年工たちの半生を、老年を迎えた元少年工とその他の関係者へのインタビューや、彼らの私物である写真などの膨大な史料をもとに描き出したことは大変意義深く、同時にそのことによって個人史の問題や国家という枠組みで歴史を語ることの限界など、我々が歴史を考え記述していく上でのいくつかの重要なテーマをも扱うすぐれたドキュメンタリー映画である。
 第二次世界大戦中の1943年から1944年にかけて、当時日本の植民地であった台湾の男子小中学生を中心に、働きながら勉強ができるという「半工半読」の惹句のもと工員の募集が行なわれ、8400人以上の少年が、台湾から神奈川県大和市にあった海軍空C工廠に派遣された。そこでの短い職業訓練の後、少年たちは船橋や名古屋をはじめとする日本各地やマニラの軍需工場に送られ、夜間戦闘機「月光」や零式戦闘機「紫電改」「雷電」などの製造に携わっていった。
 この映画のタイトルである「緑の海平線」は、工員として採用され、故郷の台湾から日本へ向かう少年たちが船上で見た光景に基づいたものであるという。それが象徴する通り、この作品では元台湾少年や彼らの指導にあたった日本人関係者の語りに等しく耳を傾け、公的な歴史には残されることがなかった個人の歴史をすくい上げていく。
 この映画では大きな歴史的コンテクストを説明するものとして、当時の様々なニュース映像や記録映像、新聞記事や公文書の書面が用いられる。元来、こうした資料では個人はただの要素として扱われる。例えば、作中で用いられている飛行機を製造するための技術訓練や工場での飛行機の組立作業を収めた記録映像では、機材を運んだりナットを締めたりする人物というカメラの前の視覚的要素にすぎない。公的な名簿では少年工個人の名前は単なる漢字の羅列、さらに新聞記事ではそこに書かれたグループや数字の構成員でしかなく、そこからは、それぞれの元少年工らが故郷を離れ、日本でどのような経験をし、終戦を迎え、そしてその間何を考えていたかということが浮かび上がることはない。しかし、この『緑の海平線』では、13名の元台湾少年工と3名の日本人関係者へのインタビューに加え、膨大な当時の家族写真、記録写真、家族や教師とやり取りした葉書や手紙、卒業文集、身分証明書などを提示していくことで、多様な個人の歴史を描き出していく。そのような形で、個人の歴史を取り上げつつ、個人の歴史が公的な歴史と相互に連関しあい、切り離すことができないものであることも、それぞれの視覚的・聴覚的な要素が縄を綯うように複雑かつ巧みに配置されることで示される。大きな歴史を示す映像と、個人の歴史を掘り起こすインタビューや史料が、作品のタイムラインにそって交互に編集され提示されるだけではなく、繰り返し同じフレームの中に重ねられる。元少年工たちが自らの記憶に基づいて彼らの歴史を語る声や少年時代の彼らを撮影した写真を、それ単体で見ても個人が省みられることのないニュース映像や記録映像などとオーヴァーラップさせることで、これまで忘れ去られ取り上げられることのなかった少年工の存在が、大きな歴史の流れの中に杭のように打ち込まれるのだ。
 また冒頭で述べたように、この作品では教科書に現れるような歴史的人物は視覚的・聴覚的にほとんど排除されているが、例外的にいくつかの視聴覚史料が用いられる。昭和天皇の玉音放送や厚木飛行場に降り立つマッカーサーの映像がそれである。一般的に終戦から占領期への歴史的な流れを象徴的に示すものとして、我々が様々な媒体で繰り返し触れてきたそれらの史料は、しかしここでは「大きな歴史」を説明するためのものではない。そのふたつが用いられるのは、天皇が終戦を告げる声がラジオから流れる場に、または飛行機から連合国軍の最高司令官が姿を現したその場に、元少年工たちが存在し、それらを見聞きした経験と記憶を持っているからである。つまり、やはりここでも、個人の歴史の中に公の歴史を位置づけ、同時に歴史というものを考える際、両者が分かちがたいものであることが示唆される。
 このように多様な個人の歴史に注目することで、歴史を「国家」という枠組みでとらえ、問題にすることの困難さも炙り出される。元少年工たちの歴史を時系列に配置したこの作品では、後半で彼らと東アジアの戦後が扱われる。そこでは、戦時中には「日本人」として日本名を持ち日本語を話していた少年工たちが、台湾、日本、中国の関係性の間で再びアイデンティティを大きく揺り動かされた過程が記録される。戦時中に日本に渡ってきた少年工たちは、終戦と同時に戦勝国側の「中国人」となり、様々な人生を歩んだ。彼らには、国民党政権下の台湾に帰国したり、日本に留まり「第三国人」として生きることを選択したり、中華人民共和国成立後に大陸に渡ったりといくつもの選択があったが、いずれにしても戦後の東アジア社会の政治的な流れと関わることになった。例えば、台湾に戻ったある少年工は、国民党政権下で中国語を勉強することを拒否し、独学で英語を学び、アメリカ大使館の運転手として働くことで、アメリカと関わった。日本での生活を続けた少年工は、「第三国人」としての特権を利用するも、やがてそれも剥奪されていくという厳しい現実に直面した。また、再び勉学を志して大陸に渡った元少年工は文化大革命の中、日本で少年工として働いていた過去を問われ、新疆で強制労働に従事させられ、その地で教鞭をとりながら1980年代までを過ごし、台湾を離れた後40年を経て故郷に帰ることができた。同じ台湾を故郷とする元少年工たちは、台湾、日本、中国、アメリカと様々な国家と関わりながら年老いていったのだ。複数の言語を喋り、複数の国を渡り歩き、複数のアイデンティティを持った元少年工たちの人生は、そのまま国家を超えた東アジアの歴史としてとらえられるのである。このように、様々な政治的圧力や個人的選択により、個人は容易に国境を越えて、複数の国家と関係を持つ。そうした個人の流動性を前にしたとき、国家という枠組みで歴史をとらえることの限界が明らかになるだろう。
 戦中・戦後の台湾少年工たちの歩みを通して、「歴史」そのものの複雑さをも扱ったこの映画には、ある種の戦後民主主義的な言説が陥りがちな被害者対加害者という単純な二項対立は存在しない。元少年工の語りも日本人関係者の語りも、等しく尊重しなければならない個人の記録としてただ淡々と扱われる。その結果、このドキュメンタリーは、これ自体が歴史的な資料として意義深い作品となっており、様々な立場の多くの人々に見てほしい労作である。

(本映画の再編集版が2007年11月29日、NHK『BS世界のドキュメンタリー』において放映されました。)


●新入会員紹介

  • 小野智恵(慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史専攻修士課程)ロバート・アルトマン映画
  • 日吉一郎(みずほ情報総研)アルフレッド・ヒッチコック映画
  • 社城 毅(宝塚造形芸術大学教授)デジタル・シネマ/大学教育としての映画