日本映画学会会報第10号(2007年9月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • 第3回全国大会は京都大学にて2007年12月1日(土曜日)に開催いたします。
  • 上記大会で口頭発表を希望される方は、発表要旨を600字程度にまとめて、2007年9月15日までに学会事務局宛にEメイルにて通知下さい。そのさい件名欄には「口頭発表要旨」と記して下さい。なお口頭発表時間はお一人25分プラス質疑応答10分です。

●書評 コリン・マッケイブ著『ゴダール伝』堀潤之訳(みすず書房、2007年)

ゴダール伝

田代 真(国士舘大学文学部准教授)

 書店で本書を手に取った方のなかには、『ゴダール伝』という邦題と、55ページにわたる詳細なフィルモグラフィーと参考文献、および貴重な写真を含む460ページを超えるそのボリュウムからして、映画史上1960年代を席巻したヌーヴェル・ヴァーグの最も先鋭な旗手として知られ、いまもなお前衛的な作風で作品を発表し続けている神話的巨匠の、伝記的新事実満載で実証的な評伝といったイメージを持たれる方がおられるかもしれない。実際に読んでみると、確かに伝記的新事実や資料にも事欠かず、ゴダール自身や関係者へのインタヴューや調査に基づく客観的な記述も手堅いものなのだが、この手の実証的と称する評伝にともするとありがちな、瑣末な新事実に寄りかかった、作品に対する思いつきの「新解釈」や牽強付会にあふれかえった凡百の類書とは無縁の、明確な問題意識と方法論に貫かれたゴダール論が展開されていることが判明する。
 著者コリン・マッケイブの名前は、本学会会員諸氏にとっては、70年代に英国において理論的な映画研究を牽引した雑誌『スクリーン』の編集委員として、あるいは80年代以降はBFI(英国映画協会)の製作部長や研究部長として活躍したことで、つとに馴染み深いものかもしれない。その経歴については訳者堀潤之氏の「訳者あとがき」に行き届いた紹介がなされているが、それを拙文に必要な範囲で圧縮すると、姓から窺えるように、アイルランド系のカトリックの家庭に生まれ育ち、ケンブリッジ大学で英文学を学びつつ、70年代の初めにはパリの高等師範学校に留学して、ゴダールの映画や構造主義をはじめとする5月革命以後の文化的、思想的な状況に触れて帰国したのち、前述した『スクリーン』誌での精力的な活動と並行して、ジョイス研究にラカンの精神分析をはじめとするポスト構造主義的な文学理論を導入した、博士論文『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』(公刊1979年)によって博士号を取得するが、その理論的急進性は保守的なケンブリッジの英文科に容れるところとならず、母校に職を得ることができなかった。このころ(1980年)ローラ・マルヴィらとともに『ゴダール―映像、音声、政治』を出版し、ゴダールがジョイスと並ぶ彼の研究テーマのもう一本の柱となっていく。その後スコットランドの大学で英文学、理論、映画について講じながら、ジョイスなどモダニズムの研究から文化全般にわたる多くの著書を発表している。すでに述べたようにBFIに職を得てからも研究、教育啓蒙の両面にわたって精力的に活動し(1985‐95年)、ゴダールとはその時期の企画の関連で接触を持つことになり、離職後も多くの映画の製作を担当するなどの活動を続けながら、彼のゴダール論の集大成とも言える本書(2003年)を刊行するにいたっている。
 さて、では本書で、著者はゴダールをどのように描いていこうとするのだろうか。著者はゴダールの映画の存在論とでもいうべきものを次のように述べている。「ゴダールにとって、現実があってそれからカメラがあるのではなく、この瞬間、このやり方でカメラがとらえた現実があるのだ。」(87)映画とは「レンズやショットのアングルの問題」であり、「監督と観客の間の関係としてカメラを考える」(214)ことに他ならない。序文で述べられているように、著者マッケイブは、ゴダールの人生とその「並はずれて豊かな仕事」を「いくつかの特定のアングル」から描き出すことを選択する。描かれる対象たるゴダールがいわばカメラの自己言及性を極度に推し進めることをもって己の方法論とするのであってみれば、自らのエクリチュールに意識的たることは描き手としての最低の資格といえよう。そのようなアングルの決め方自体が、監督=観客としてのカメラたる本書の著者の視線を不可避的に示すことになるはずであるからだ。ゴダールの企ての美学的、政治的、知的な過激さ、射程の広さを考えてみるだけで、その資格が要求するハードルの高さが並大抵のものではないことは容易に想像できる。
 実際、本書の構成を先取り的に示した「序」において、著者自身が「回顧録であり、その決定的なアングルは私自身のゴダールとの接触によってもたらされている。」(11)とした、対象との近接感にあふれる微視的なクロース・アップでアングルをとったともいえる第5章に限らず、他の4つの章においても、「ゴダールに対する必要不可欠なアングル」として、「家族史」(第1章)「思想史」(第2章)「映画作品の歴史」(第3章)「政治史」(第4章)という「四種類の異なる歴史」(11)を設定している。これらのアングルは、ゴダールの人生と仕事を写しだすという困難極まりない伝記という企てにおいて、それをさまざまなパースペクティヴで的確にとらえることに成功しており、著者がいわばゴダールを撮るカメラたるに充分の資格を備えていることを証している。ゴダール自身の伝記的事実のみならず、それと拮抗する、書き手の対象との関係としてのこうしたアングル相互の関係もまた、著者マッケイブの知的探求の軌跡とでも言うべき側面として、この本を、訳者も言うように「単なる伝記以上」のいっそう魅力的なものにしているように思われる。
 まず、こうしたアングルを太く貫く本書全体の問題意識は、著者の年来の研究テーマである、ヨーロッパのモダニズムの歴史のなかで、それが孕む逆説の一側面として、ゴダールの仕事を理解しようとすることである。著者によれば、西洋の民主主義による教育の普及によって、万人が読み書き能力を充分に備えるようになり、印刷技術が発達や、映画の発明もあって、芸術の読者/観客は、19世紀末に爆発的に増加した。だがそうした大衆社会の読者/観客が、資本主義の市場原理に従って、消費し、要求するのは、ジャンルやスペクタクルであり、それによって市場に流通するのはステレオタイプのみという状況が生まれる。このような状況にあっては、作者があらかじめ同意された芸術の規則や慣習にしたがって受容者を見出す単純な新古典主義や、芸術家が自分の天賦の才能の特異性を通じて受容者を見出すロマン主義は、無効となる。モダニズムは、シクロフスキーの定式化によれば芸術の「装置を剥き出しにすること」、言い換えれば芸術自体の形式や媒体に焦点を当てる傾きが強いが、それは、モダニズムが意味の構築そのものに観客を巻き込むことで、そうした市場と出来合いの意味を拒否することを選択するからにほかならない。それは例えば文学の場合ならば将来の理想的な読者に向けて書くということを意味することになろう。そのためには、既存の制度を転覆するという左翼的な手段にせよ、既存の制度の支配階層の少数のエリートを通じて文化を維持するという右翼的な方法にせよ、理想的な読者を得るための、政治的なプログラムを含むことが必要となる場合もあろう。(12、89、162、276‐7)「モダニズムの逆説とは、すなわち、それが完全に民主的な芸術観を…、観客をほんの一握りに限ってしまうような水準の注意と関与を要求する形式で差し出していることである」(227…引用者省略)、あるいは「経済的な存在条件がおのずと多人数の受け手を要求するような諸形態のその内部において、典型的なものと一般的なものをほぼ完全に拒絶して、〔その映画を〕見るものに並外れた水準の積極的参加を求め」(12〔〕内引用者補足)ることである。
 本書特に2章から4章までを読むと、ゴダールの仕事が、このヨーロッパのモダニズムのドラマをある意味でまともにひきうけたものであるかが理解できる。著者は、この点に関してゴダールの仕事を「自分なりの仕方で観客を見出す試み」(161)として捉えようとしているが、その軌跡をたどってみよう。
 映画批評家として出発した当初、ゴダールの映画の師、アンドレ・バザンや『カイエ』の仲間とともに、古典主義的な美学を主張する。バザンにとって、映画は、カメラというテクノロジーによって可能になった新しい芸術であり、しかも安定した諸ジャンルと映画語法とをもって確立された観客を対象とする大衆的、民主的な芸術であり、他の先行する芸術形態のようなモダニズムの矛盾の隘路に入り込むこと無しに済むはずであった。彼らは批評活動によって観客を啓蒙し、制作配給側により良い映画をつくらせることが可能だと考えていた。皮肉なことは、『カイエ』の活動時期からヌーヴェル・ヴァーグの映画製作活動の時期は、従来の安定したハリウッド・スタジオ・システムの独占化された産業構造が崩れてきた時期でもあったことである。
 60年代初頭以降、ゴダールの映画はド・ゴールによる映画検閲のターゲットになり、ゴダールは国家権力の抑圧を身をもって体験し、ブレヒトの影響で実験的な手法を深めながら政治的な傾向を強めていくが、それを著者は「確立された諸ジャンルと文法を脱構築して理想的な読者に呼びかける」「純然たるモダニズムの立場への移行」(208)と捉えている。「映画を用いた政治的実験」(184)の時期といえる1968年の5月革命からの4年間、ゴダールは、ヴェトナムをはじめとする被抑圧者の、アメリカ帝国主義を中心とする資本主義的抑圧に対する闘争を強く支持しながら、それを自らの美学的なイデオロギー闘争と重ね合わせていく。アメリカは、映画において、資本の面のみならず表現形式の面でも世界を支配し抑圧している。かつて『カイエ』の美学の支柱であったハリウッド映画の「確立された諸ジャンルと文法」は、いまや、「世界を理解する際の根本的に誤ったやり方を強要し、音と映像を欺瞞に過ぎぬ仕方で一致させながら知識を与える」(186)ものとして批判の対象になるのである。闘争は、一種熾烈な映像批判のかたちをとって行われる。カメラの存在は従来に増して強調され、常に映像の欺瞞的な表象性が暴露される。慣例的な映像と音の関係は切り離され、サウンドトラックが自律的な要素として、映像と拮抗する重要性を与えられる。同時に、ゴダールは、テレビという新たなメディアムでも実験的な作品を制作し、その急進性ゆえに放映を拒否されることも多かったが、新たな観客との関係を模索している。試行は制作主体にも及ぶ。それら実験的な作品群は、ゴダールと若いマオイスト、ジャン・ピエール・ゴランらを中心とするジガ・ヴェルトフ集団による共同作業の産物であった。しかし、著者がそこに見るのは、すでに述べたモダニズムのアポリアである。「ジガ・ヴェルトフ〔集団〕の立場が抱えていた大きな弱点は、革命的な政治によって、別の観客が生まれるだろうと決めてかかったことだった。…しかし実際には、…どんな政治的観客も見出せなかった。」(228)
 著者の設定したゴダールに対する必要不可欠な4つのアングルのうち、第2章から第4章を貫く問題意識は以上のようなものであるといってよかろう。「序」で「回顧録」と位置づけられた第5章で、著者は、もちろん、そのようなモダニズムのアポリアに対する、その後のゴダールの人生と芸術の探求の道筋を明らかにしようとはしているが、ゴダールが現存する以上、その道筋がまだ確定したものでないことは明らかである。ここでの、著者との個人的な接触のもたらすアングルは、「家族史」である第1章と相互に反映しあう関係にあるように思われる。またそこには、著者マッケイブというカメラの影も見えてくるように思われる。鍵となるのは、家族、宗教(信仰)、文化といったテーマである。
 1972年のジガ・ヴェルトフ集団解散以後、ゴダールは、スイスのローザンヌ出身の女性監督アンヌ=マリ・ミエヴィルとともに共同作業を行うが、それを契機として導入されるのは、ラカン派の精神分析に基づくフェミニズムの観点である。1976年の『ヒア&ゼア、こことあそこ』以降、政治闘争行き詰まりは、男性性の行き詰まりとして捉えなおされ、闘争における女性の役割や今まで等閑視されていた家庭と家族という空間も取り上げられるようになってくる。過剰なまでに推し進められてきた映像に対する音の優位も再検討され、音声における対話性も重要視され、音声と音声、映像と音声の新しいバランスが追求された。また、家庭を重視する観点から、ヴィデオやテレビのといったメディアの作品制作の方法も洗練されていった。1979年には、アンヌ=マリ・ミエヴィルとスイスの小村ロールに居を構え、家庭を持つことになる。信仰(新たなる映画に対する)への、故国(それが代表する西欧文化)への、家族(ミエヴィルに導かれた精神分析に対する)への、帰還である。
 1982年の『パッション』では、プロレタリア闘争自体が、閉塞している状態が描かれ、「信念の体系としての政治」は放棄される。
 「家族史」のアングルから描かれた第1章で興味深いのは、ゴダールの一族の背景となるカルヴァン派的心性(メンタリティ)についての著者の着眼である。ゴダールは、スイスと強いつながりを持つフランスの新教徒のブルジョワの名家出身である。著者は、16世紀の宗教改革の時代にさかのぼって、スイスのカルヴァン派とフランスのユグノーに対する宗教的弾圧以来の宗教的政治的状況の中で、ゴダールの一族、特には母方の祖父の一族(モノー家)が占めてきた重要な位置付けを明らかにしながら、その心性のなかでゴダールと彼の家族の関係を描きだしている。周知のように、プロテスタンティズムは神との関係において教会という媒介を否定し、無媒介性を主張する。著者は、その帰結として「あらゆる信者が聖職者である」という点での「個人の強調」と、「それぞれの家族が独自の小さな教会になること」(34)とを挙げている。厳しい宗教的弾圧や差別の中で宗教的マイノリティとして生き延びるために、家族はいわば抵抗(プロテスト)の拠点となるのだ。もちろん、少年ゴダールは、家族に内在するプロテスタント的抑圧に対して抵抗し、家族から離脱し、パリに向かうことになる。ゴダールの抵抗的なメンタリティをこうしたプロテスタント的なメンタリティとの関連で捉えようとする著者の着眼自体、著者マッケイブが、英国国教会が正統的支配的なイギリスにおいて宗教的マイノリティであるカトリックの出自であることを考えると興味深い。第5章では現前する著者は、第1章ではもちろん不在であるが、ある意味では、最も遠い逆転した自己の鏡像としてゴダールを描こうとしているのではないだろうか。そして第5章では、著者が80年代以降のゴダールの芸術の集大成とみなす『映画史』の企てを解釈するにあたって、ゴダールのカトリックへの関心を重要視しているのだが、そこにも、ゴダールにおけるプロテスタント・マイノリティの心性としての「抵抗」と著者のカトリック・マイノリティとしての「抵抗」の交錯が読み取れるように思う。典型的なものと一般的なものが支配する中で、それをほぼ完全に拒絶して、特殊性(「個人の強調」)を主張すること。もはやロマン主義的な固有な自我は解体している以上、それは、他者の「引用」を創造的に行うことを意味することになろう。第5章で、1979年の春に著者と『勝手に逃げろ/人生』制作中のゴダールとの最初の邂逅について述べながら、マッケイブは1967年に初めてパリでゴダールの映画を見た時のことから、すでに経歴で紹介した、1972年のパリの高等師範学校への留学、帰国後の『スクリーン』誌での活躍やジョイス研究の顛末を語る。支配的な英国の文化伝統に対して、カトリック・マイノリティが、パリの5月革命から生まれた新しい文化と思潮を移入=引用することで、闘争を挑んだ姿が髣髴とさせられる箇所だ。(264‐6)
 ラカン的精神分析をジョイス研究に導入したジョイス研究者としても知られるマッケイブらしく、彼の『映画史』解釈は、ラカンによるジョイス解釈に依拠したものである。著者はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』も『映画史』と同じく歴史と言語全体を主題としており、モンタージュで組み立てられているという。著者は、ラカンに従って、症状を意味する16世紀のフランス語綴「サントーム」sinthomeを症状syptomeと聖人saint hommeの語呂合わせ症状を意味する16世紀のフランス語綴「サントーム」Sinthomeというカテゴリーで『映画史』のゴダールを説明する。よく知られているように、ラカンは、「私」と「あなた」だけで他者不在の母親との未分化の双数関係(想像界)から、セクシュアリティの区別を知ること、すなわち記号とモノとの分裂を体験すること(去勢)で、言語と法が支配する象徴界(「彼」「彼女」の存在する世界)に入ることができるとされるが、分裂体験の傷を抑圧することで神経症になるか、あるいは、去勢そのものの可能性を否認することで言葉と事物の分離ができない精神病になる。著者によれば、ラカンは「サントーム」というカテゴリーで、精神病でも抑圧的でもない第3の神経症者のカテゴリーを作りだす。それは象徴界それ自体を問いただすという症状であり、言い換えれば文化的伝統それ自体の発掘し問いただすというかたちで自己とその属する共同体を解放することを目指す芸術家のあり方であり、それゆえに「症状」であるとともに「聖人」なのだという。著者に言わせれば、ゴダールが属するのがヨーロッパ文化であるのであってみれば、ゴダールが問いただすのは、プロテスタント的であると同程度にカトリック的であるという。(317)カルヴァン派は、聖人というものを廃したことで知られる。実際、著者は、カトリックにおける聖人とは異なって、プロテスタント的な聖人を「自らと神の関係を固く信じ、自分の正しさを確信しているがゆえにミルトンのように、たった一人だけしかいない教会を構想できるような独立心のある人」(403)といっているが、自らの存在の根拠として普遍性、一般性を信じつつ、それを問いただす抵抗というあり方に対する信仰を持つ者こそ、プロテスタント的な聖人なのではないか。実際、著者は別のところで「モダニズムによる慣習の破壊が行き着いたのは、芸術の単なる商品化に過ぎず、そこでは映像はその文脈をめぐる諸言説に還元されている。」(314)と述べてヨーロッパの文化の必然的帰結としての資本主義による商品化という状況を指摘しながら、『古い場所』でのミエヴィルの言葉を引いている。「しかしながら、私が感じるのは、何か抵抗するもの、何か独創的なものがあること、起源はいつもそこにあるだろうということ、そしてその起源が抵抗しているということである。」(314)
 こうした問題意識と方法が本書全体に貫かれているがゆえに、ヨーロッパ・モダニズムの芸術家としてのゴダールの全体像が、その文化的、社会的、歴史的背景にくっきり浮かび上がってきて、ゴダールの芸術家としての一貫性、徹底性を改めて実感することできた。
 もちろん、綿密な評伝にふさわしく、さまざまな興味深いエピソードや貴重な写真資料にも事欠かない。紹介する余裕がなくなったが、たとえば、母方の祖父、ジャン・ピエール・モノーは祖母の兄であるアーノルド・ナヴィルとともに文学青年で、小説家アンドレ・ジッドや詩人ポール・ヴァレリーと面識があり、ヴァレリーの秘書だったこと。ヴァレリーがドイツの詩人ライナー・マリア・リルケと生涯一度だけ面会しているのだが、それは、祖母ナヴィル家の別荘であったこと。母とその一族とヴァレリーが一緒に写った写真。ゴダールは盗みの常習犯で、祖父のヴァレリーから献本された初版本を近くの古本屋に売り飛ばしたが、そこは祖父の得意先だったので、直ちに露見したこと。『カイエ』の事務所からお金を盗んだりした挙句の果てにチューリッヒの刑務所に収監されたこと。ルイ・ル・グラン高校の集合写真にジガ・ヴェルトフ集団のジャン=ピエール・ゴランとラファエル・ソランと後にラカンの後継者となるジャック・アラン・ミレールが一緒に写っている、等々、本書は充実した読書体験を味わわせてくれる。
 著者マッケイブの著書が日本語で紹介されるのは、本書で2冊目である。最初の邦訳は、前記の『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』(筑摩書房、1991年)が、本学会会長であり、英文学の領域において優れたジョイス研究者としても知られる加藤幹郎氏によって行われている。16年を隔てて、同じく本学会会員である堀潤之氏の手によって、著者マッケイブにとってジョイスと並ぶ畢生のテーマであるゴダールについての著作が紹介されたことは、まことに意義深いことだと思う。
 どこの国についてもいえることだが、自国の文化について母国語の読者に向けてかかれた書物というものは、自明の文化的コンテクストは説明を省いて論を進めがちなものであり、それが外国人の読者にとって理解しにくい原因となっていることがある。特にフランスでは伝統的に自国の文化に対する矜持が強く、比較的その傾向が強いように思われる。その点、フランスの映画作家について、映画とフランスの文化に通暁した著者による英文の本書は、当然国際的流通度がより高い英語圏の読者に向けてそうした点に配慮して丁寧な論じ方がされており、一般性という点で、フランス映画、文化を専門としない他の文化の映画、他領域の研究者、特にモダニズムに深い関心を持つ研究者や、一般の読者、ゴダールに興味を持つ若い映画ファンにとっても興味深く、有益なものであろうと思われる。
 紹介の意義が大きいだけに、翻訳者の負担は大きいことになるが、映画史に通暁する優れたゴダールの研究者であり、英仏両国語に堪能な堀潤之氏は、良くその任を全うしている。原書を、従来の本邦におけるゴダール受容の積み重ねや、英米文化、フランス文化の日本への紹介の積み重ねとその違いをも踏まえ、平明で読みやすい日本語に移し変えるだけでなく、詳細な「訳者あとがき」で、本書刊行以後のゴダールの活動について要を得た報告を提供しており、現在までのゴダールの評伝として原書以上に遺漏の無いものとしている。価値ある大著紹介の労に対してあらためて深い敬意を表したいと思う。


●新入会員紹介

  • 岡田尚文(パリ第一大学大学院博士課程)フランス中世史
  • 川本 徹(京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程)アメリカ映画論
  • 木谷佳楠(同志社大学大学院神学研究科博士前期課程)アメリカ映画とキリスト教
  • 日臺晴子(東京海洋大学准教授)19世紀英文学/身体文化論
  • 山田 哲(アウトノマ大学大学院博士課程)スペイン歴史映画史