日本映画学会会報第30号(2012年2月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

 日本映画学会会員のみなさまにおかれましてはお変わりなくお過ごしのことと思います。さて来年度にともなう御所属の移動等がございましたら事務局まで御一報下さい。また経費節減のために本学会では事務連絡等は基本的にEメイルで行っておりますので、Eメイルアドレス、所属、肩書きその他の御変更がありましたら速やかに学会事務局までお知らせ下さい。

●学会誌『映画研究』第6号の編集を終えて

杉野健太郎(信州大学人文学部教授)
  日本映画学会学会誌『映画研究』編集委員会のまとめ役を務めさせていただいている杉野と申します。『映画研究』第6号の審査結果をご報告申し上げます。本号には9編の投稿があり、最終的に4編が掲載とあいなりました。
 審査手続きは、第4号および第5号と同じです。すでにご報告申し上げました通り、第4号の審査から正式に再審査を導入いたしました。前回のご報告のくりかえしになりますが、審査は、次のような過程を経ます。一定の期間を経て編集委員がそれぞれの査読結果を持ち寄ります。複数の査読者が各論文を担当することにいたしておりますが、今回は、各論文をそれぞれ3名の査読者が担当しました。査読の評価点は次の4段階です。
      4点=掲載します
      3点=修正を施した最終版を掲載します
      2点=再審査します
      1点=掲載不可
 査読結果において評価が割れた論文に関しては合議期間においてさらに討議を重ね、全投稿論文の審査結果を慎重に作成します。審査の結果は、投稿規程の通り「9月中旬頃」に、コメントとともに投稿者に通知されます。ちなみに、今号の全投稿論文9編に対するコメントの総文字数は1万9千字でした。すなわち、1論文あたり、2千字程度のコメントが付されます。各論文についてのコメントをみなさまに公開することはできませんが、今回は〈よくあるコメント〉に基づいて投稿者にアドヴァイスをするとすれば、明晰な言語・用語使用と明解な論理展開を心がけてくださいということになります。当たり前と言えば当たり前で、研究段階あるいは/ならびに研究成果を伝える段階で生じる問題だと推察されますが、高い評価を得られない論文の場合は必ずこの点が指摘されます。もちろん、芳しくない研究成果を難解で自己韜晦的な文章で表現するようなことは慎んでいただければと存じます。また、やはり研究されるべき映画という類があるのか、今回の審査でも、研究対象となった映画そのものの力のなさということも委員会内でしばしば指摘されたことを付記しておきます。
 話を審査過程に戻しましょう。「9月中旬頃」の通知以降ほぼ一ヵ月間は、脱稿準備期間です。3点以上の評価を受けた論文の執筆者は脱稿用の最終版ファイルの作成を行い、2点の評価を受けた論文の執筆者は再審査用のファイルを作成します。当然のことながら、再審査対象論文は、再審査を受け、委員全員の投票の上で採否が決定します。掲載論文がすべてそろったところで、日本映画学会賞の選考に移ります。今回も、賞の選考まで含めると、審査が始まってから終わるまでに3ヵ月半ほどかかっております。編集委員のみなさま、そして連絡を担当していただいている松田事務局長および印刷実務ご担当の井上常任理事、ならびに投稿者のみなさま、お疲れさまでした。
 さて、ことあるごとに申し上げておりますが、日本映画学会学会誌『映画研究』は、本学会および日本における映画学の発展とともに発展向上していきたいと願っております。今号を離れて、過去6号を振り返れば、ここ数号は投稿論文が二桁前後に上り、充実した学術雑誌になってきたのではないかと愚考いたしております。10年ほど前、すなわち日本映画学会が創設される前は、日本の映画研究には太陽のような巨星がいくつか存在し輝きを放っているがそれに続く星が足りないという危惧を個人的には抱いておりました。しかし、『映画研究』の編集を担当しながら、次第にいやます新星たちのまばゆいばかりの光芒に目がくらむばかりで、喜びを禁じえません。これも、みなさま、とりわけ投稿者のみなさまのご尽力の賜物です。ありがとうございます。

 いずれにせよ、日本映画学会会報第27号(2011年6月号)で加藤会長が書いておられますように、日本映画学会および本学会誌は研究成果の「比較検証と議論がおこなわれる場所」です。映画研究の発展のためにも、この場所へ多くの方々が参加され、本学会誌にも多くの投稿があることを祈念いたしております。

●第4回(2011年度)日本映画学会賞の選考経過について

杉野健太郎(信州大学人文学部教授)
 日本映画学会賞の選考を常任理事会から委嘱されております編集委員会を代表して、第4回(2011年度)日本映画学会賞の選考の経過をご報告申し上げます。日本映画学会賞とは、学会誌『映画研究』投稿論文のなかで「傑出した学問的成果を示した論文」に与えられる賞です。今回の選考対象論文は、『映画研究』第6号に掲載されました4編です。
過去三回とまったく同様に、予め決めておいた二つの手続きによって選考を行いました。第一の手続きは、最優秀論文を選ぶプロセスです。第二の手続きはその最優秀論文が日本映画学会賞にふさわしいかどうかの決定プロセスです。両手続きとも、審議を経た上での投票が具体的決定方法です。もちろん、日本映画学会学会誌『映画研究』と同様に匿名審査ですので、各論文の執筆者は伏せられたまま、論文タイトルによって選考されます。
 このプロセスに則り、まず、掲載論文の学問的成果に関してさらに審議した後に、ポイント(1位5点、2位3点)を付加して1位と2位論文に投票することによって最優秀論文を決定しました。最優秀論文は、査読の段階から評価が高かった「Trapped in Between: Interim Space/Time in Wong Kar-wai’s In the Mood for Love and 2046」(以下、「ウォン・カーウァイ論」と略記)が選ばれました。ただ、過去3回とは異なり、一桁の僅差で2論文が最優秀論文を競いました。最優秀論文が日本映画学会賞にふさわしいかどうかの決定に関して申し上げれば、2論文が切磋琢磨した結果だと思われますが、同論文は、投票の結果、賛成4票/反対1票で日本映画学会賞に選出されました。
 ウォン・カーウァイ(王家衛、1958- )監督・脚本・製作の『花様年華』(In the Mood for Love, 2000)と『2046』(2046, 2004)は、彼の1960年代もの3作(他の1作は『欲望の翼』[1990])のなかでも、連続性が強く、いわば一対の映画と言えるでしょう。「ウォン・カーウァイ論」は、一見するとロマンスあるいはエロスものに過ぎないように見える両映画の空間と時間を、男女関係、SFの列車などのモティーフを軸として分析することによって、両映画が香港がおかれた歴史・政治状況のアレゴリーとなっていることを解明した論文です。論文の詳しい内容はお読みいただくとしまして、委員会では、映画のなかに示唆される年号および先行研究によって敷かれた道を着実にたどった点は否めないという指摘がなされました。しかし、実は、それ(すなわち、多くの人が漠然と抱いている印象あるいは直観的洞察を論証すること)ができる力量は並大抵ではない、先行研究に「interim」な時空分析を付加した点、立論の巧みさ、細部の読解の的確さ、先行研究への適切な目配り、文章表現の明晰さ、明確な論理展開など、どの点を取っても非常に完成度が高い、との意見が大勢を占め、一定以上の評価を集め、最終的には投票の結果、賞に選出されました。「ウォン・カーウァイ論」がきわめて完成度の高い明晰な論文だとすれば、最優秀論文決定のプロセスで「ウォン・カーウァイ論」と競った論文は、方法の独創性とやや力技とも思える論旨の展開が特徴であり、好対照を成しています。ちなみに、この予見は実現しませんでしたが、最初の査読を終えた段階で私の脳裏をよぎったのは、「この2編が同時受賞かもしれない」でした。
 さて、賞選考過程において票が割れたことが端的に物語っているように、『映画研究』第6号に掲載された論文はいずれ劣らぬ力作です。これらの論文を超える論文を書くことは、並大抵のことではありません。しかし、切磋琢磨の競争や議論がないと研究は発展していきません。これらの論文に挑戦する論文そして挑戦を受けるべく新たな論文が登場することを期待いたしております。

 さて、もとより本学会の多様な論文の成果を判断することには困難がつきまとい期間等にも限りがあるなど様々な制約がございますが、編集委員会といたしましては、全力を尽くして、また何より公平かつ公正に、選考をいたしていく所存です。学会誌掲載のみならず本賞を目指して投稿されることを祈念いたしております。

●視点1 アニメーションを意味する言葉を巡る史的雑感・私的雑想

小出正志(東京造形大学教授)
 私が学生だった頃、教育や研究の場では映像とは写真や映画やビデオやCGなどの包括概念、あるいはそれらに共通する視覚的記号などとして捉えられていて、世間一般でも同様の理解にあったように思う。特に美大の映像専攻の学生だった私は、そのような認識の下で映像を学んだり考えたり創ったりしていた。
 ところが卒業後の1980年代後半のある夜、テレビを見ていたら映像と写真を使い分けているナレーションを聞いてたいへん驚いた。確かフジテレビの深夜番組だったと思う。そうこうしている内に新聞の文化欄の催し物案内欄に「写真・映像」という見出しを見つけてまたまたびっくりした。テレビの若者向け深夜番組ならともかく、天下の『朝日新聞』がこのようなカテゴライズをするので、これはもう世間一般でもこういった認識が広まっているに違いないと確信するに至った。
 その後大学に戻り、多くの学生(≒若者)と接するようになり、改めてそういった認識を確認した。後年、日大の心理学のN先生らが学生に対して行った調査が日本映像学会大会で発表され、やはりそのような結果が出ていて、納得もしたがやはり驚きもした。1980年代の終わり頃には映像とは、静止画を除く映画やテレビなどの動く映像表現やメディアを示すものとの認識が、特に若者の間で定着していたようだ。
 それから十年もしない内に携帯電話が一般に広く普及・劇的に高機能化し、インターネットが商用化・急速にブロードバンド化し、映画やテレビとは異なる「動く映像(moving image)」が世の中に氾濫すると、「動画」という言葉が一般社会で復活した。もちろん「アニメーション(animation)」という意味ではないことはいうまでもない。「ムービー(movie)」という言葉が必ずしも一般に「映画」を意味しなくなったのも同じ頃である。
 長年、アニメーションに関心を持って研究や教育などに関わってきたが、アニメーションに限らず映画・映像一般も含めて、純粋に理論的あるいは観念的・抽象的なものではなく社会一般に存在するごく普通の存在・事象・表象あるいは制度といったものを、学問的な研究対象として扱うことは案外難しいことであると感じている。映画やアニメーションは作品として見た場合でもハイカルチャーに属すような正統的・伝統的諸芸術と異なり、その多くが大衆芸術・大衆文化の類に属するものである。時として学術的あるいは研究上の理屈や都合だけではなく、一般通念や社会的な認識といったことも勘案せざるを得ないことがあり、むしろその場合が多い、というよりは積極的に取り入れなければならないとすらいえるだろう。
 アニメーションを指し示す言葉も大いに揺らぎ、変化してきたということができる。映画の場合は「motion picture」や「moving picture」の訳語としての、1930年代半ば以降次第に使われなくなった「活動写真」という語を経て、比較的早く「映画」という語が日本語として熟した。その「映画」という語にしても、近世末期には「写真」と同義に用いられていた。元来は静止画像としての「映像」の意味であり、後に転用され「フィルム」の意味でも使われ、「活動写真の映画」という言い方もなされた。明治期には幻灯で映写する画像やフィルムのことを示したりもしている。
 アニメーションを示す日本語は、映画としてのそれは「凸坊新画帳」に始まるとされるが、映画前史のプロトアニメーション(proto-animation)に遡れば、近世の「写し絵」や明治期に島津商会が輸入・販売し、後に製造もした「驚盤(きょうばん、おどろきばん)」や「動体鏡」などもアニメーションを指し示す語の一種といえるだろう。「写し絵」の動きには仮現運動ではないものも含まれるので、その意味では狭義のアニメーションを示すものではないが、この指摘はあまりにアニメーションのコマ撮り原理主義に過ぎるかも知れない。シャルル・エミール・レイノー(Charles-Émile Reynaud、1844-1918)のテアトル・オプティーク(Théâtre Optique)がもっと早く発明され、幕末にでも日本に伝来していたらどんな日本語が当てはめられていたか大変興味深い。フィルムは使うものの、その画像が写真的に作られるのではなく、手描きや印刷術によって作られるフィルム・アニメーションを特に分節する呼び名は見当たらない(部分的・限定的には「玩具フィルム」の一部がそれに当たるかも知れないが、アニメーションに限るには無理がある)。いずれにしても新画帳を見て楽しむ人々にとっては、アニメーションの画像が写真的に作られていようが手描きや印刷術で作られていようが、あまり関係なかったといえるだろう。
 アニメーション映画の輸入以降、前述の「凸坊新画帳」、「線画映画」や今村太平の著作にも用いられている「漫画映画」、そして日本のアニメーションの父・政岡憲三(1898-1988)による命名・造語である「動画」と移り変わり、戦後、写真や映画などと同様にアニメーションも動画という収まりのよい落ち着いた日本語が定着するかに思われた。東映が日動映画(日動、旧・日本動画)を買収して東映動画を設立した1950年代末は少なくともそのような方向性にあったといえるだろう。ただし動画という言葉は比較的知られていたとはいえ、一般的には「漫画映画」、あるいは「漫画」の方が通りもよく、実際、動画の本家本元総本山といえる東映ですら、1969年から1989年まで20年間に渡って興行時に用いられた呼称は「東映動画まつり」ならぬ「東映まんがまつり」であった。
 1960年代、日本のアニメーションの変革期にアニメーションはその新たな活路を劇場用映画からテレビに求めた。日本のテレビ用アニメーション、1話30分番組のテレビ・シリーズの嚆矢となった『鉄腕アトム』(第1シリーズ、1963-1966)の産みの親である手塚治虫(1928-1989)は、「アニメ」という言葉とその概念を創り出した始祖の一人であるといえるだろう。もちろん普通の国語辞典に当たり前に載っているように「アニメ」は「アニメーション」の略語として使われ、テレビジョン(television)を略した「テレビ」が日本語として定着したように、それは一般に広く用いられている。手塚はいわゆるリミテッド・アニメーション(limited animation)のスタイルを取り入れた『鉄腕アトム』の製作に際して、フル・アニメーション(full animation)で育った、経験あるスタッフに対して、しきりに「これはアニメーションではなくアニメだ」と繰り返したという。ウォルト・ディズニー(Walter Elias Disney、1901-1966)に代表される世界のメインストリームのアニメーションとは異なる新しい表現、あるいは制作手法、その創出を目指したのだろう。これが見事に成功して、その後「アニメーション」は「アニメ」として日本で大きく、また一面で特異な発展を遂げた。その表現のみならず制作システムやビジネスモデルを含めて、正統的・伝統的なアニメーションの創り手達からは常に批判される対象であり続けた手塚であるが、文化史や産業史的にはもちろんのこと、アニメーションとしてもっと評価されるべきだろう。
 それはさておき、手塚が目指した「アニメ」は当初、一般には「テレビまんが」と呼ばれた。漫画原作のテレビ化であるから、言い得て妙なのであるが、一面でアニメーションに関わる新たな語の登場でもあった。「テレビまんが」という表現はアメリカでリミテッドによるテレビ・アニメーションに対していわれた「絵の付いたラジオ」、日本でいわれた「電気紙芝居」のような否定的な言葉では必ずしもなく、むしろテレビやアニメの草創期から揺籃期のあの時代の、現時点から見れば時代の制約を受けた表現ともいえるだろう。この「絵の付いたラジオ」や「電気紙芝居」もアニメーションを意味する言葉の一種といえるかも知れない。
 もちろんアニメーションの専門家の間ではアニメーションという語は比較的古くから用いられ、アニメーションの略語としてのアニメも1960年代の半ばまでには定着していたと思われる。一般にはあまり知られていたとはいえない言葉だったが、1960年結成の「アニメーション三人の会」とそこから発展し開催された草月アートセンターの「アニメーション・フェスティバル」(1964-1971)などの活動もあり、少しずつ社会に広まっていった。
 「テレビまんが」という言葉が広く一般に「テレビアニメ」という語に置き換わり、世の母親達が「テレビで漫画ばかり見てないで勉強しなさい!」ではなく「テレビでアニメばかり見てないで勉強しなさい!」というようになったのは、明らかに1980年代以降である(もちろん「テレビで漫画」は今でもよく耳にする)。「テレビアニメ」や「アニメ」が一般化した背景の一つには1977年のいわゆる「ヤマトブーム」がある。1974年から翌年にかけて放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は視聴率が低迷し2クール26話で放送が終了したが、1977年の再放送を機に大ブレイクし、「アトム」以来ともそれ以上ともされるアニメブームを巻き起こした。人気を当て込んで製作された劇場版はテレビ作品の再編集に過ぎないものであったが、その公開に際して信じられない数の若者(子供ではなく)が徹夜の行列を作り、一種の社会現象の様相を呈するに至った。
 アニメーション産業史の立場からも1970年代に数十億円規模だったアニメーション市場が昨今では二千数百億規模に拡大したのは、1970年代後半から1980年代にアニメーションの受容が青年層に拡大し、続く1990年代に一般市場が成立したことが大きい。
 「テレビまんが」が「テレビアニメ」になったのは単なる言葉のファッションという側面も否定できないが、他方必ずしも漫画的ではない内容と表現、当初は単なる印刷漫画・出版漫画のあまり高品質とはいえないテレビ化・映像化に過ぎず(押井守監督風にいえば「劣化コピー」ということか)、原作漫画に比べて洗練されていない二流の表現物に過ぎなかったものが、テレビアニメ疾風怒濤の1960年代末から1970年初めの時期を経て明らかに洗練され成熟して行き、独自の表現領域・境地を形成したことが大きい。次に訪れる世界中から日本アニメが注目される時代に向け、その基盤を確実に強固なものとして行ったといえる。必ずしも子供向けではなく青年層を魅了し満足させるものは、やはり「テレビまんが」と呼ぶより「アニメ」と呼ぶ方がより相応しいだろう。
 また「アニメ」という語の普及の要因としては「ヤマト」を機にしたアニメブームによって『アニメージュ』(徳間書店、1978- 刊行中)や『ジ・アニメ』(近代映画社、1979-1987)、『マイアニメ』(秋田書店、1981-1986)、『アニメディア』(学習研究社、1981- 刊行中)など、誌名に「アニメ」の語を含む雑誌の相次ぐ創刊が大きいということも指摘できるだろう。
 大学生を中心とするアメリカ合州国の一部の若者達が日本のアニメーションに注目するのも1970年代以降であり、彼らは日本の特異な形式と内容のジャパニーズ・スタイルのアニメーションをジャパニーズ・アニメーション(Japanese animation)=「ジャパニメーション(Japanimation)」と呼んだ(ただし『New Oxford American Dictionary 2nd edition』(Oxford University Press, 2005)などによれば、Japanimationはblend of Japan and animationであるという)。アニメーションの、それもそのリージョナルなカテゴリーではあるが、新たな語が加わった。
 「ジャパニメーション」の語は1990年代には日本のマスコミにも広く知られるところとなり、当時海外での日本のアニメの人気ぶりを報道する際に盛んに用いられたが、既にその頃当のアメリカでは「ジャパニメーション」の語はあまり使われなくなり、日本語の「アニメ」が「anime」としてそのまま日本のアニメーションを示す言葉として日本語由来の英語となり、「tsunami」(津波)や「tycoon」(大君)、あるいは「Zen」(禅)や「manga」(漫画)などと同様に定着した。以来、欧米の定評ある辞・事典にも載るようになり、今では世界中の辞・事典に載っているといっても過言ではない。筆者には何語であろうが(読めないものが多いが)辞書・事典の類いを見ると「アニメーション」や「アニメ」の項目を見る習慣がある。10年近く前、クロアチアを訪れた際に国立図書館でクロアチア語の映画事典を確認したが、確かに「anime」がその意味で掲載されていて、それにはさすがに驚いたことがある。
 なぜ英語圏で「Japanimation」の語が使われなくなったか。1990年代末に『新版 現代デザイン事典』(平凡社、2000年)の関連項目で書いたことがあるが、ジャパニメーションはジャップ(Jap)のアニメーション(animation)とも読め、アジア・大平洋戦争下ならともかく、日米同盟の最重要性が叫ばれ、そうでなくとも日本や日本人を指す蔑称・差別用語でもある「JAP」を避けて「JPN」を日本の略称とする時代にあっては頗る都合が悪い。確かに初期テレビアニメは既存のメインストリーム・アニメーションから見れば安かろう悪かろうという、かつての日本製工業製品を彷彿とさせるものであり、そのような意味を込めた者もいるかも知れない。実際、かつての日本アニメはクレジットを削り取られ、原形とは似て非なる形に編集されたものも少なくない。著作者人格権もなにもありはしない。とはいえ日本のアニメを初めジャパニメーションと呼び慣わした者の多くは、特にそのような差別的意図はなかったと思われる。
 英語の「animation」はここでいうまでもなく「ani・ma・tion」と分節され、スペルに「me」はなく、英語で「anime」と略すことはまず考えられない。できたとしても読みは「アニメ」ではなく「エニーム」か何かだろう。韓国では「ani(エニー)」と略すことがあり、日本語に比べると原語に対してより妥当性がある。いずれにせよこのような通常の英語では受け入れられない言葉は、たとえ元は英語の英語由来の語であってもそれは外国語(=日本語)として受容され、日本語由来の英語となった。
 1980年代後半から1990年代にかけて、日本でもアニメーションの研究が徐々に盛んになりつつあったが、海外の動向に影響されたというよりも自らの国で大きく発展をしたアニメーションの、その独自の様式や形式をどう捉えるかを研究者の立場で考える中で、「アニメ」を単なる「アニメーション」の略語としてではなく、日本製のアニメーション、特に商業アニメーションを指す言葉として意識的に捉える考えが芽生えた。専門的な分析や解釈というよりはむしろ一般社会の認識の追認という要素が大きかったのかも知れない。元々アニメの影響を過剰に受けていない(誤解を恐れずにいえば毒され過ぎていない)世代のアニメーションの研究者や専門家あるいは愛好家の間では、日本のアニメを否定的に捉え、低く評価する場合が少なからずあったといっても過言ではないだろう。その後の持て囃され方からすれば、ある意味で過小評価していたといえるかも知れない。もちろん「世界に冠たる」とか、「現代日本を代表する文化」などといわれる日本アニメも、総体としてみれば確かにそれは認められるとしても、森ではなく木を見るなら当然ピンからキリまであり、全ての作家・作品が無条件に素晴らしいわけではない。アニメに限らず絵巻だろうが錦絵だろうがそれは同じである。
 1990年代後半より「アニメ」を日本のアニメーションと捉える考え方は一般にも少しずつ広まった。2002年に開催が始まったTAF(タフ)も「東京国際アニメーションフェア(Tokyo International Animation Fair)」ではなく「東京国際アニメフェア(Tokyo International Anime Fair)」である。当時、都庁主催による説明会があったが、企画者によれば日本発のアニメーションを積極的に強調する意味で「アニメーション」ではなく敢えて「アニメ」としたという。この頃にはそのような使い分けが違和感を伴わなくなりつつあった。ただしその後2009年に勤務先の大学院の「プロジェクト科目」(特定テーマによる単年度開講の演習科目の一種)で、「アニメと美術」(「アニメーションと美術」ではなく)を開く際に、科目説明会で「アニメ」と「アニメーション」の違いについて聞いた建築系のある教員は、その場にいて初めて知ったらしくとても驚いていたのが印象的だった。一般への浸透はそれほど進んではいないようである。
 より専門的な場でも「アニメ」と「アニメーション」の使い分けは一般的な理解を得ることは難しかった。前述の事典でも編集者とのやり取りを経て「ジャパニーズ・アニメ」とせざるを得なかった(その後の改訂で「アニメ」に改めることができた)。また1990年代半ばに関わり始め十数年の後、2008年に刊行された『世界映画大事典』(日本図書センター)の「アニメーション映画」の項目執筆の際にも、日本のアニメーションの海外での呼称をめぐって編集委員会との間で見解の相違があった。最終的にインターネットの英語サイトでの「Japanimation」と「anime」の頻出数で圧倒的な開きがあり、「anime」が掲載されることとなった。この領域で社会における理解や認識が重要な意味を持つ事例の一つであるといえるかも知れない。
 いずれにしても「アニメ」が「テレビ」や「パソコン」などと同様に、日本語において「アニメーション」の略語としての役割が求められている以上、無前提・無条件に「アニメ」と「アニメーション」の使い分けを強いることが難しいことはいうまでもない。
 アニメーションを意味する言葉の変遷を辿ってきたが、時代を経ると共にそれらが死語となったり歴史的な用語になるかといえば必ずしもそうともいえない。「漫画映画」にしても「ジャパニメーション」にしても、死語と化したかと思われる現在でも用いられることがある。かつて漫画映画と呼ばれた時代のアニメーションを呼ぶ歴史的な名称としての用法のほか、現代日本のアニメでは作られなくなった、ある意味で失われた古きよきテーマや表現、テイストを持つアニメーション映画のことをあえて現代でも「漫画映画」とすることがある。
 例えば2004年7月から8月にかけて東京都現代美術館で開催された「日本漫画映画の全貌」展(企画はアニドウ代表のなみきたかし氏)は、東映動画などによるいわゆる「漫画映画」のみならず、現代のスタジオジブリ作品に対しても「漫画映画」を適用しており、典型的にそのようなアニメーション観、アニメーション史観で企画・構成されている。また北米での使用の影響で1990年代に日本でもマスコミなどで盛んに使われた「ジャパニメーション」も2000年代に入りあまり使われなくなったが、アニメの特徴とされる「often having a science fiction theme and sometimes including violent or explicitly sexual material」(『NOAD, 2nd ed.』前掲書)という傾向を強く持つ作品、あるいはよくいわれるカッティングエッジな作品、例えば『AKIRA』(大友克洋監督、1988)や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(押井守監督、1995)などを指し、あえて「ジャパニメーションのようなアニメ(あるいはアニメーション)」と表現することも比較的多く見受けられる。
 ところで「アニメ」は日本製の商業アニメーションを指すとされるが、その「商業アニメーション」という言葉も日本独特の表現といえるだろう。文芸の分野では純文学と大衆文学(大衆小説)、その間の中間小説などという分節があるが、映画の世界でも「商業映画」という呼び方がある。商業アニメーションは明らかに商業映画という語のアニメーション分野における援用といえるが、アニメーションの場合は取り分け「アート・アニメーション」という言葉が一般化して以降、特に強調され意識的に用いられるようになった観がある。近頃ではプロダクション・システムの中でコンテンツ商品としてのアニメーション制作に携わる人々が積極的に用いる事例を散見する。筆者の勤務先の大学ではアニメーションの現場で演出や作画などに携わる実務家を兼任講師や特別非常勤講師として多数招聘しているが、学生に対する自己紹介に際しては「商業アニメーションに携わる」とか「商業アニメーションの仕事をしている」と発言する場合が多い。これをアニメーションの多様化の発露と見るか、産業としてのアニメーションの自己意識の顕在化と見るか、解釈は様々であろう。
 いずれにしても「商業アニメーション」に相当する表現は欧米では見あたらない。以前、海外からの研究者が通訳を介して日本のアニメーション作家と研究者にインタビューをした際に「アート・アニメーション」と「商業アニメーション」の用語と概念で結果的に意思の疎通が十分行われ得なかったと思われることがあった。文化の大衆化が進み、また比較的階級が平準化されている日本において、ハイカルチャーとローカルチャー、あるいはハイアートとローアートという文化の階級性に対する意識は相対的には低いといえるが、しかしながら所々に見え隠れするものが明らかに存在する。支配的な文化や芸術に対する対抗文化(カウンター・カルチャー)であるはずのアニメーションにおいてすら、商業(←→非商業)、アート(←→非芸術)、インディペンデント(←→非独立)といった二項対立的な概念の導入やカテゴライズを施すこと自体が必ずしも本質的にそぐわしいとは思えない。少なくとも筆者は違和感を感じざるを得ない。
 そして「アート・アニメーション」という言葉もまた「商業アニメーション」同様に、日本独自の用語であるといって差し支えないだろう。海外での「art animation」の用例は皆無ではなく、また「fine art animation」などの用例も散見される。とはいえ短編アニメーション作品を殊更のようにアート・アニメーションと呼び、差別化するのは日本的な風土に由来するものといえるかも知れない。この場合の風土とはもちろん“人の文化の形成などに影響をおよぼす精神的な環境”のことである。
 当然のことながらアート・アニメーションにも商業性はあり、商業アニメーションにも芸術性はある。アート・アニメーションは1980年代までは「個人アニメーション」や「自主制作アニメーション」「プライベート・アニメーション」などと呼ばれた。1990年代以降、特に顕著となった、集団制作作品としての商業アニメーションに対する作家性の強い個人制作作品を作り出す個人アニメーション作家のビジネスシーンへの進出が、アート・アニメーションという呼び方を一般化したともいえるだろう。
 因みに日本のアニメーション教育の場では、社会を反映してアート・アニメーションと商業アニメーションという分節、あるいは意識・認識が一般的であるが、アメリカを代表するアニメーション教育機関の一つであるCalArts(カルアーツ)=カリフォルニア芸術大学(California Institute of the Arts)におけるアニメーションのコース区分は、無論「Art Animation(芸術アニメーション)」と「Commercial Animation(商業アニメーション)」ではなく、「Experimental Animation(実験アニメーション)」と「Character Animation(キャラクター・アニメーション)」である。
 もちろん日本でも「実験アニメーション」という語は過去も現在も用いられている。前述の「個人アニメーション」や「自主制作アニメーション」は「実験アニメーション」とも呼ばれた。もっともこれらの言葉が常に等しく同様に用いられていたわけではなく、非商業的な短編アニメーションに対して、技法やテーマ、作風・テイストなどによって使い分けられていた。「実験映画(experimental film)」が一般的には死語になりつつある中で、同様に実験アニメーションも死語になりつつある。文化や芸術においてアヴァンギャルドや実験というものが確実にその役割を終えたようにもみえる現在、当然のことかも知れない。しかしこの言葉もまた細々と生き残ってはいる。先に触れた手塚治虫には原作を提供した膨大なアニメがあり、そのビデオグラムもまた大量に出ているが、『ある街角の物語』(1962)に始まる一連のいわゆるアート・アニメーション作品を集めたビデオグラム(DVD-Video)のタイトルは『手塚治虫 実験アニメーション作品集 Osamu Tezuka Film Works』(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン GNBA-3036)である。これは作家の死後にまとめられた作品集だが、監修・解説者の故・片山雅博多摩美術大学教授が「アトム」などのいわゆる商業作品に対して手塚のいわゆるアート作品を指すものとしてこだわった言葉でもある。
 とはいえ総じて実験アニメーションという言葉が使われなくなってきていることは明らかである。因に検索エンジンで調べると「”実験アニメーション”」は約118,000件、「”アートアニメーション”」は約301,000件で、アートアニメーションの圧勝である(執筆時Google調べ。検索日:2011年10月28日)狭い意味での「実験的」ではなく、表現や手法・技法、あるいは制作体制なども含め、既存の枠組みとは異なる新たな取り組みは実験と称しても差し支えないといえるが、実験という語が持っていた先進性や革新性といったイメージよりも、それにまつわる生硬さや不完全さ未完成さといったイメージが先立ち、それが好まれず避けられる時代となったのかも知れない。
 「アニメーション」を意味する言葉をめぐっての雑想・雑感だったが、少し広がってしまった。いずれにしても「○○アニメーション」や「アニメーション○○」まで視野に入れて行くと切りがない。英語で「cutout animation」は日本語で「切り絵アニメーション」ないしは「切り紙アニメーション」だが、「切り絵」と「切り紙」の違いや「紙以外の」「切り絵」の問題など、これも話が広がる。英語でいう「Drawn-on-film animation」の一種の「scratching on black film leader」や「engraved directly onto black film leader」は「スクラッチング・フィルム」あるいは「スクラッチ・フィルム」なのだろうが、伝統的には石元泰博、大辻清司、辻彩子のグラフィック集団による『キネカリグラフ』(1955)に由来する「キネカリグラフ」や「シネカリグラフ」が用いられてきた。略して「キネカリ」や「シネカリ」ともいう。技法を示す語であるなら「キネカリグラフィ」や「シネカリグラフィ」の方が適切だろうが、これは英語ではなく英語風の日本語(カタカナの日本語)である。これまた話が収まらなくなる。
 アニメーションの研究では未だ用語・術語の揺れが多い。上述の「アニメ」と「アニメーション」の問題は立場や解釈の問題が出てくるのでさておくとして、より規定し易いものでも一般用語や日常語と専門用語・学術用語が錯綜し、混沌としているといえる。アニメーションの専門家同士の会話や議論でも時折、概念規定の齟齬が生じることが多々ある。そもそも「アニメーション」と一言でいったとき、それが「アニメーション技術」を指すのか「アニメーション技法」を指すのか「アニメーション表現」を指すのか「アニメーション作品」を指すのかあるいは「アニメーション総体」を指すのか定かではない。映画において「シネマトグラフィ(cinematography)」や「フィルム(film)、「シネマ(cinema)」などといった言葉が使い分けられているのとは大いに事情が異なる。
 ところで映画や美術など、訳語が日本語として定着した言葉でも、時として原語をそのままカタカナで表した語が復活・登場し、併用され、同じく等しい意味にも使われる一方で、また異なる意味やニュアンスを漂わせて使われることもある。近いところでいえば「漫画」と「コミック」あるいは「カートゥーン」、「文化」と「カルチャー」、「美術館・博物館」と「ミュージアム」、「図書館」と「ライブラリー」、前述の「映画」と「シネマ」「ムービー」「フィルム」、「美術」あるいは「芸術」と「アート」などである。東京大学文学部の大橋洋一教授はテリー・イーグルトン著『文化とは何か?』(松柏社・2006、Terry Eagleton, The Idea of Culture, 2000.)の訳者あとがきで、「culture」に「文化」の訳語をあてるか、「カルチャー」とカタカナのままにすべきか迷ったとし、「「カルチャー」を使えばcultureの多様性を保存しつつ、「文化」のもつ時代遅れの精神的意味(「教養」)や時代遅れの高級感(文化住宅から文化包丁・文化鍋にいたる)を払拭できる反面、カタカナ語のもつ魅惑と軽薄感の共存や専門語に固有の先端性と通俗性の共存による不要な含意の汚染をも招く。どちらを選択しようとも不満は残る」と記している。この言には実に深く共感できる。
 これまで見てきたようにアニメーションは古からのやまと言葉もこなれた漢語のいずれも「アニメーション」という英語由来の外来語のカタカナ表記の言葉と等価なものはない。その意味で使い分けが生ずるとすれば、前述の「漫画映画」や「ジャパニメーション」の用語法のような、ある種の意識が働いているのだが、アニメとアニメーションの使い分け同様に常に分かりにくさや曖昧さがつきまとう。アニメーションを取り巻く、現代的なそして歴史的な状況を示しているといえるだろう。
 先にアニメとは特異な日本のアニメーションを指すとした。この意味では「アニメーション」という上位概念の中に下位概念としての「アニメ」がある、あるいは「アニメーション」のサブ・ジャンルとして「アニメ」があると解釈される。アニメに対するこのような認識は1990年代後半から2000年代にかけて以降、一定の拡がりを見せているが、アニメを取り巻く状況を見ると、必ずしも「アニメ⊂アニメーション」とはいえないかも知れない。漫画やゲームとの関係や複合性、キャラクター(キャラクタービジネス等)やアニソン、コスプレ、ボイスアクター(声優)、……、そこには一般的なアニメーションに留まらない表現や形式、文化の大きな拡がりがある。そのことを捉えてアニメがアニメーションを含む大きな拡がりを持つものである(アニメーション⊂アニメ)と指摘されることもある。アニメーションとアニメの関係にもある種の相対性が存在するといえるだろう。
 とかく揺らぎが多く曖昧になりがちなアニメーションを取り巻く言葉であるが、先にここで取り上げることを控えることにした「○○アニメーション」についていえば、最近中高生などの間で「クレイ・アニメーション」を「人形アニメーション」や「立体アニメーション」の意味で使うことが多くなったと聞いていたが、実際、大学のAO入試の面接などで「このクレイ・アニメーションは粘土でできていて」などと、自作の立体アニメーションのキャラクターの材料を説明する受験生(高校生)がいて、面と向かって聞くとやはり不思議な感じがする。これに限らず日本語一般で外国語の綴りがカタカナになり元の意味が薄らぎ、ついには元の意味と異なる使われ方をする語は少なからずある。
 雑感・雑想として行き当たりばったり書いて来た観があるが、最後に一言。「学術用語集」の策定は、伝統ある成熟した学問分野においては半ば常識的なことかも知れないし、やや不十分、あるいは準備不足という分野でもそれはある程度は可能なことであろうが、アニメーション研究においては未だその段階に程遠い。術語・用語の表記や概念の統一や規定は、アニメーション研究にとって解決すべき問題・課題の一つであるといえるし、また決して近くはない(が遠くしてはならない)将来の目標としては、この分野においても「学術用語集」が作られることは望むべきことであるといえるだろう。

●視点2 映画製作委員会に関わる複数企業のネットワークと、そのソーシャル・キャピタル

水川 毅(東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程)
 現在、日本映画はその殆どが製作委員会方式によって製作されていると言われている。東宝はHPで製作委員会に関して次のように言及している。「製作委員会は、複数の会社により構成されます。その機能は、複数の会社が資金を出し合って、一本の映画を製作することにあります」とし、続けて「製作委員会は、今や映画作りの主流になりました。2010年の東宝配給作品はすべて、何らかの形で製作委員会方式を取り入れて映画作りをしています」とある。その日本映画製作の主流を占める製作委員会方式で映画製作に関わる企業群の中でも特に大手映画3社(東宝、東映、松竹)は、2000年から2010年までの直近11年間で日本映画の製作本数が毎年平均して日本映画全体の2割弱でありながら、興行収入は8割以上を維持している。映画の実績指標の1つである興行収入10億ランクイン本数に関しても大手映画3社は同期間において平均9割以上で非大手を圧倒している。非大手映画会社群は製作映画本数が8割強でありながら興行収入において2割以下であり、興行収入10億ランクインに至っては1割以下という現状である。この数字だけを見ると大手映画会社は、非大手映画会社と比較して、ある種の効率の良い映画ビジネスをしていると言えよう。ある種の効率の良いビジネスができている背景には製作委員会で組む企業間に何らかのソーシャル・キャピタル(註1)が作用して効率が上がっている可能性がある。そして、その恩恵に与るかの様にマスコミ企業(広告会社、テレビ局、新聞社、出版社)の多くが非大手映画会社との映画製作実績ではなく、大手映画3社との映画製作実績から映画ビジネスのノウハウを得るとともに、実績を上げている。私が所属している広告会社という視点から、大手広告3社(電通、博報堂、ADK)の映画製作の実態を見ると、2000年から2010年の11年間で各社の製作本数は、電通158本、博報堂64本、ADK39本、合計261本(電通と博報堂が一緒に参加している映画が2本あるので実質本数は259本)である。その中で大手映画3社との製作本数は171本(全体の65.5%)であり、一方非大手映画会社との製作本数は86本(全体の33.2%)で、大手広告3社は大手映画3社との映画製作に依るところが大きい。ただし広告会社個別で大手映画3社との製作本数、率を見ると、電通104本(65.8%)、博報堂34本(53.1%)、ADK 37本(94.9%)というように各社で大手映画3社との製作比率は異なっている。更に大手広告3社と大手映画3社との個別製作実績を見ると、東宝は、電通65本、博報堂22本、ADK17本というように全ての大手広告3社と製作実績がある。東映は、電通13本、博報堂0本、ADK20本で博報堂との実績が無い。松竹は、電通25本、博報堂10本、ADK0本で、ADKとの実績が無い。このように大手広告3社と大手映画3社だけ見ても特徴のある製作本数、ネットワークがある。当然それだけでなく他のテレビ局をはじめとするマスコミ企業とのネットワークを絡めたネットワーク分析をしていくと、どの広告会社と、どの映画会社と、どのテレビ局のパターンが多いのか、そしてそのパターンでの実績(興行収入)にも、ある種のパターンを見出すことができる。これは映画の製作委員会に参画する企業間でのネットワーク分析の話であるが、先行研究では映画製作に関わった人々のネットワークを分析し、複数人が継続的に繋がる「組」の存在を明らかにしたものが神吉、山下、山田、若林(2007)の研究にある。(註2)ただし、ネットワークを分析して誰と誰が繋がっているとか、どの企業とどの企業が繋がっているというパターンが見出せたところで、そのパターンが何を意味するのか、あるいは何のためにそのパターンが意図されて存在しているのかは実際の製作に携わった製作者達にインタビューや、アンケートなどを実施して掘り下げていくことでしか詳細に迫ることはできない。実際に前述の「組」の存在を明らかにした研究の後、山田、山下は『プロデューサーのキャリア連帯』(2007)(註3)で、プロデューサーへの詳細なインタビューを実施している。このインタビューという手法は繋がりの分析だけでは分かり得ない、映画製作に携わる人々や企業の独自の考え方、価値観、ビジネス感覚といった要素を明らかにしていくものである。特にビジネスとしての指標である映画の興行収入は10億以上の映画に関しては毎年発表されているが、それ以下の興行収入記録は簡単に入手できない。ましてや映画の製作費に関しては製作委員会方で複数企業の出資で成り立っていることから、額が詳細に分からないのは勿論のこと、どの企業がどれだけ出しているか発表されていない。つまり映画の製作費と興行収入から映画のビジネス的効率実績を求めるのは公のデータから求めることは不可能なのだ。それがインタビューであれば聴き出せる可能性がある。この場合も広告会社の視点から広告会社の関わる映画製作が単純に興行収入10億ランクインを全て目指して行っているのか、そうではない価値観で製作する映画があるとしたら、どのような規模の製作費で、どのような企業と製作委員会を構成しているパターンになるのか。その時に同じく製作委員会にテレビ局が入っている場合、テレビ局側のプロデューサーは広告側のプロデューサーとどのような価値観の同異があるものなのか。そのソーシャル・キャピタルのパターンは一見単純に見える映画大手3社、広告大手3社、テレビ局などマスコミ参画の企業間ネットワークであっても、実は多様であり未知な領域である可能性に満ちているのではないだろうか。
1 ソーシャル・キャピタルとは、人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率を高めることのできる、「信頼」「互酬性の規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴。『コミュニティ機能再生とソーシャル・キャピタルに関する研究調査報告書』(内閣府経済社会総合研究所編 2005)
2 神吉直人/山下勝/山田仁一郎/若林直樹「高業績映画プロジェクトのソーシャル・キャピタル」組織科学 Vol.40 No.3 41-54 (2007)
3 山下勝/山田仁一郎『プロデューサーのキャリア連帯』(白桃書房 2010)

●視点3 フレデリック・ワイズマン ─ 社会制度の奥底へ

Deplaedt Yannick (ドゥプラド・ヤニック 名古屋外国語大学フランス語学科招聘講師)

方法論

 フレデリック・ワイズマンは常に、アメリカの様々な社会的制度の、よく調査され、一貫性のある、奥深い肖像を作り上げることに強い関心を持って来た。ワイズマンは注意深さによって知られているが、自作に社会学的、歴史的次元を持たせ、作品を時代に刻いでいく。タイム誌のある批評家は彼について、「壁への強い好奇心と興味を持つハエ」と述べている(1)。  
 彼の映画監督としてのキャリアは1967年、論争を巻き起こした、精神病院についてのドキュメンタリー映画「チチカット・フォーリーズ (Titicut Follies)」に始まるが、この作品は公開禁止となった。この禁止以降も、彼の創作意欲は休むことなくアメリカ(時としてフランス)の諸制度を凝視し続け、40本の作品が制作された。彼は、制度的な業界を狙うことで、この種の映画の中でも、独自な多様性を備えた作品を作り出した。すなわち、精肉についての「肉 (Meat)」、集中看護についての「臨死 (Near Death)」、アメリカの高校についての「高校 (High School)」、家庭内暴力やその被害者救援団体についての「ドメスティック・バイオレンス (Domestic Violence)」等々である。あたかも彼は、アメリカを機能させているあらゆる制度的秘密のレントゲン写真を撮ろうと決心したかのようであった。
 方法論において彼は、感情を引き起こしたり、増幅したりする音楽や、登場人物たちと監督との間のインタビューを使用せず、枠に収まることを拒否する。映画に語らせるに際し、彼は画面上に起こることをどのように考え、判断し、知覚すべきかを観客に説明する語り手の声を借りて、様々な映像によって語らせる方を好むのである。ワイズマンが、一切の説明を排した裸の映像を好み、観客に情報を与えないと言って批判する研究者もいる。この理由により、彼の映画はプロパガンダだと断じる者さえいる。ワイズマンはこのような攻撃に対し、観客は映像を読む力があると見なされていると反論している。また彼によれば、観客たちが編集による修正を把握できないと考えるのは、彼らを愚か者と見なすことになるのである。彼にとって、ドキュメンタリー映画の素材は、説明される必要はなく、またそれはテレビが用いる様々な方法、短いフォーマット、説明、ジャーナリストの意見、等々に対立する。批評家たちはこの根本的に不誠実な方法が、ワイズマンのより野心的な計画には適用されていないことに驚愕する。
 方法論について、ワイズマンは細部への興味でも知られている。我々は、彼のドキュメンタリー映画の中で、特定の状況下で真意を容易に欺く、手、目、唇といった身体部位の密なショットをどれほど目にすることになるだろう。
 フレデリック・ワイズマンの独特な映画において、撮影後の編集の問題が常に取り上げられる。ワイズマンは常に、ドキュメンタリー映画には必ず主観的な部分とフィクションの部分が含まれるという考えを主張している。これら二つの要素が、この映画作家の作品を豊かにし、同時に数多くの批評家に論争を引き起こしたのは間違いない。
 ドキュメンタリー映画「高校」(2)についての1969年の議論の際、フレデリック・ワイズマンに対し、彼の映画には客観性が欠けているという質問が出された。映像化された現実の 「正しさ」という問いかけに取り組む際に彼の取る姿勢について、彼は次のように答えた。

 「全てのドキュメンタリー映画は主観的だ。私はどうやれば客観的なドキュメンタリー映画が作れるのかわからない」
 3年後、ドキュメンタリー・エクスプロレイションズ誌のG.ロイ・ルヴァンとのインタビューで、ワイズマンは同様の質問に答えている。
 「私は映画の客観性 / 主観性など、馬鹿げた問題だと思う。映画は、どうやったら主観的以外のものでありえるのだろう。」

 例えば、アルバート・メイスレやロバート・ドリューなどとともに「シネマ・ダイレクト(3)」の先駆者である彼は、しかしながら、この運動のうちの中でただ一人、撮影時に経験された現実に近づこうとする考え方を拒否している。彼はさらに、カメラが、機材や撮影チーム同様、いかに控えめであっても、被写体の態度を変えると確信している。ワイズマンは今日、現存する最も偉大なドキュメンタリー映画監督の一人として認識されている。困難なデビュー作「チチカット・フォーリーズ(4)」から最新の「ボクシング・ジム(Boxing Gym)(5)」までの監督歴を通じ、彼は最大限に過剰な評価を受けてきた。ワイズマンの独特のスタイルは、彼の美的、形式的な選択とともに、彼自身その語が自らに適用されることを頑に拒否する観察映画(observational cinema)に属する監督たちの間でも、彼を独特の存在にしている。
 新聞や雑誌の批評家がワイズマン作品を賞賛する理由の一つは、おそらく観客を、今日頻繁に行われている観客と映画との間の相互作用を可能にする道具立てを用いて誘惑する手段をけして採用しないという点にあるだろう。
 “彼の目的は、彼自身が説明したように、映画を作ることで観客と内容との関わりを深めることであり、そういう理由で、映画を見ている観客と映画の出来事との間の隔たりはなくなる。つまり見る者は、受け身の証人以上であることを求められ、自分にとっての意味を理解し、映画の中でおこっている出来事とどのように関わるかを決める能動的な参加者にならなければならないのである(6)。
 批評家が最も非難するのは、物語性に関してである。実際、ワイズマンは美的、倫理的な選択を隠さないのである。彼はフィクションにせよドキュメンタリーにせよ、映画は、ドラマチックな構造を中心に構築されるべきであるという考え方を常に擁護してきた。しかしながらそのことは、現実に仮託した純粋なフィクションの帰結であるようなクライマックスへと導かれる緊張感に基づいて映画を作ることを意味しない。

 「私がやろうとしていることは、ダイナミックな構造がそなわるように映画を編集することだ。そういう理由で、「観察映画」という呼称はいかんせん受け入れがたいのだ。なぜなら、少なくとも私にとって「観察映画」は他の事柄と同程度の重要性しかもたないある事柄にのみ関わることを意味するが、これは正しくはない。少なくとも私に取ってはこれは当てはまらない。(7)」

 彼は、観客が感情移入できるような登場人物を「創造」することもしない。ワイズマンは現実から真のフィクションを作り上げようとしているのではなく、すべての映画は、物語的構造そして強固にドラマ的な構造を持たなければならないと考えているのである。

 「質問:あなたは撮影の際に、ドラマチックな展開を探していますか? 」
 ワイズマン:最初にある考えは、映画を撮ろうということだけだ。映画には、ドラマチックな展開や構造が必要だ。ドラマというものがなにかを明確に分かっている訳ではないが、ドラマチックなエピソードが得られるということに賭けている。普通の経験の中にも多くのドラマがある。「パブリック・ハウジング」では、警察に家からの立ち退きを命じられるあの老人にドラマがあった。キッチンのテーブルでキャベツをむいているあの老婦人にもドラマがあった。(8)”
 フレデリック・ワイズマン映画になじみのない者にとって一見、なまの現実に思われる事柄の中にも、時間と空間の並行的な再構築すなわち再創造が行われていることは確実であり、そのことは批評家や映画史家がこの映画作家と交わす議論の中にしばしば話題として現れる。映画の中に姿を現すあらゆるシークエンスは、観客が出来事の「濃縮」と呼びうるものへと近づくべく編集されている。彼の目的は明確に、すべての重要な出来事の総合と画面上のシークエンスの長さとの受け入れられるバランスを維持することである。6時間にわたって上映される「臨死」の計画においてさえ(9)、時空間的な現実を完全に保存することは単純に不可能である。
 ワイズマンの目的は、真に映画作家=観察者であることではない、彼はその方向へ行くすべての試みを否定する。彼は、観客たちが、時間と空間は映画の中で再構成されていることを理解するのに十分経験のある批判精神をもっていると想定している。彼にとって、彼が見、聞き、理解したことと同じことの再構成ではなく、明確な枠組みの中で、観客を与えられた状況の重要な瞬間に立ち会わせることが重要なのである。
 しかし彼の映画は誤解されることもある。「ダンス(邦題「パリ・オペラ座のすべて」)」が公開されたとき、日本の観客たちはこの映画に失望したが、それは映像と物語の質が低かったという理由ではなく、ワイズマン固有の方法論に当惑したからであった。映画はダンスそのものについてではなく、パリ・オペラ座のバレエ団というフランスの制度についてであった。多くの観客が期待していたダンスのシーンはむしろ少なく、短く、国家化され、官僚化された構造としての芸術というワイズマン特有の問題は、しばしば、理解されないままであった。この反応は、ドキュメンタリー映画の批評家にとって教えに富み、観客には映像や監督が意図した視点を読み取る能力についての反省を促すものである。


(1)“It is Mr. Wiseman method to make himself an extremely attentive fly on the wall, observing long exchanges.”(「長時間の交換を観察する壁の蠅になるというのが、ワイズマン氏のやり方だ」)
(2)「ハイスクール」、フレデリック・ワイズマン監督、1968年制作。
(3)「シネマ・ダイレクト」は1958年から1962 年に北米のカナダとアメリカに生まれたドキュメンタリー映画の潮流。初期の受容では、現実を直接的に把握し、真実を伝達する欲望をその特徴としたが、やがて、現実の問題を提起し、映画によって行動へと人々を促す方法となる。
(4)「チチカット・フォーリーズ」フレデリック・ワイズマンの第一回監督作品。1967年制作。この映画は公開後に大スキャンダルを引き起こし、監督は裁判所に出頭を命じられた。
(5)「ボクシング・ジム」2010年制作。
(6)Atkins, Thomas R. “The films of Frederick Wiseman : American Institution” in Sight and Sound, volume 43 numéro 4 (octobre 1974), page 233.
(7)Peary
(8)ワイズマンは権利を買ったテレビ局に一挙に放映することを依頼した。

●視点4 セーラー服と機関銃とジャンヌ・ダルク

山本一郎(松竹株式会社 映像ライツ部)
 第12回東京フィルメックスにて、「相米慎二のすべて~1981-2001全作品上映~」と題して、11月19日から25日まで相米監督の映画、13本の上映が、東銀座の東劇でありました。連日、海外の映画監督・批評家・映画祭関係者と映画ファンが詰めかけていました。上映終了後の、出演俳優の方々とスタッフを中心とするゲストトークも素晴らしく、“相米組”の強さを改めて知ると同時に、これほど充実した回顧上映は、非常に珍しいのではないかと思いました。これを機会に海外に特集上映が広がることを期待しています。
 以下は、スクリーンで連日みることができた9本を中心にした感想です。
 『セーラー服と機関銃』は、カール・テホ・ドライヤー監督のサイレント映画『裁かるるジャンヌ』が基礎となっているようです。
 おそらくは純潔のヒロインが、兵士(小さなヤクザ組織の組員たち)を率いて攻めてくる敵と戦い、捕らえられ、告白を迫られ(麻薬について)、拷問され(クレーンで吊るされ、薄めたコンクリートの大型水槽のようなところに、出し入れされます。変形した“洗礼”でしょうか?)、奇妙な十字架にかけられ(カルト宗教らしき施設)、手術室で解剖されそうになります。戦いが終わったあと、ヒロインは炎とともにあり(屋上で、卒塔婆のような神道か仏教に関わる品々を燃やし)、最後は、ショートカットになり、頬に涙を流す、という物語です。
 メインタイトルで、セーラー服のヒロインのバストショットの後ろで大きな炎が燃えていますが、これ自体が、ヒロインがジャンヌ・ダルクであることを暗示していているようで、それも“ドライヤー監督のジャンヌ・ダルク”だということが、次第にはっきりしてきます。 とすると、セーラー服が、『裁かるるジャンヌ』でファルコネッティが着ていた囚人服(?)にあたると思います。
 21日の上映後のトークで、黒澤監督と榎戸監督が、バーの場面で、相米監督がキャメラを一回転させようとしたが断念した、というエピソードを語っておられました。私は、『裁かるるジャンヌ』で、裁判所らしき建物からジャンヌ・ダルクが刑場へ連行される時に、天井のキャメラが画面でいうと上から下にパンするのですが、これを試みたのだと思います。デビュー作『翔んだカップル』の川辺の立ち小便のショットでも半回転ぐらいしていました。(私が好きな、ヒロインがブリッジしている場面も実は、これと関係があるのではないかと思っています。)
他にも関係づけられるような場面があるのかもしれませんが、私が驚いたのは、典型的な商業映画で、相米監督のオリジナル企画ではないにもかかわらず、骨格をまるごと、“芸術映画”「裁かるるジャンヌ」にしていて、しかもエンドロールで、「みだらな女になりそう」だとヒロインが独白し、以降の作品にこの“ジャンヌ・ダルク”を輪廻転生(少女、“娼婦”、時には男性に)させ続けたように見える点です。(今回の特集上映では、残念ながら、『光る女』『雪の断章』『東京上空いらっしゃいませ』『夏の庭』は見逃しました。)
 蛇足ながら、私が一番好きな場面は、ヒロインが傷ついた子分を抱きしめる時の芋虫のような、足の指の伸縮です。
 例えば『ションベンライダー』の少女は、途中で極端なショートカットになり、衣裳も、少年のそれと交換することで、ファルコネッティの囚人服に似た姿になります。悪人の一人が、彼女によって、柱に釣り下げられるのは、磔刑の身代わりのようにみえました。『台風クラブ』は、集団転生と言ってよいのでは思いました。
 『ラブホテル』で“みだらな女”となったヒロインが、ベッドで両腕を広げて縛られ、股間をよせている姿も磔刑と同じで、港でイヤリングを探す場面では、細い棒によじ登りますが、これもそのように見えます。『お引っ越し』で“家庭の団欒”を守ろうと立ち上がるヒロインは、ほとんどジャンヌ・ダルクと同じ運命をたどります。山でさまよう場面は、文字通りの受難です。
 共通するアイコンは、破れた衣裳、ショートヘア、炎(花火)、緊縛、十字架、出血、鳥(折り鶴)や群衆(祭り)、などになるでしょうか。
 さらに、雨や入水を“洗礼”、歌謡曲を“讃美歌”だとすると、『裁かるるジャンヌ』を超えて、“キリスト教”に接近していくようです。
 『魚影の群れ』で、若者の頭に太い釣り糸が巻きついている場面や最後に死ぬ場面も私にはつながって見えました。白い衣裳と最後の髪型で、一見ヒロインに転生しているようですが、二分して、メインは男性に移ったのでしょう。 『あ、春』では、父に転生していました。
 上映最終日、私自身が、この考えにとりつかれてしまって『風花』のラストでヒロインが大きな鳥居の下にいるショットを見たときには、本当にぞっとしました。バックミラーを見て去って行く“元官僚”の男が“悪魔”だったからです。それは、『翔んだカップル』のラストでリングに向かう“悪魔”となった少年と同じです。上映後のトークで浅野忠信氏が、相米監督から撮影現場で違う意味ではありますが“敵”と呼ばれていたと聞いて、さらに怖くなりました。
 私は、特集上映の途中から、ジョン・フォード監督が『若き日のリンカーン』で、リンカーンの物語を、誰もが知っているキリストの物語を重ねて、荊冠をシルクハットに、十字架を椅子にかえて、表現していたのを思い出していました。あの映画の最後は雷鳴の丘(ゴルゴダの丘)をリンカーンが登って行き、リパブリック讃歌がながれて、ワシントンにあるリンカーン像が映って終わっていたと記憶していますが、長年にわたる特定の諸要素の“散りばめ方”、小道具や水に対する一種の異常な執着が、似ていると思っています。例えは、ジョン・フォード監督の場合、『四人の息子』『若き日のリンカーン』『捜索者』で、 小石を川や水たまりに投げ、波紋を見せる場面が出てきたと記憶していますが、いずれも登場人物の生死と関係があるようです。特に『捜索者』の場合、どうしてここに水たまりが?というような場所でした。(スピルバーグ監督が、新作でリンカーンを描くのに、ジョン・フォード監督が異常な執着をみせた、この帽子をどうするのか、大変興味があります。)
 テーブルか何かを挟んで、登場人物たちがくるくる追いかけっこするのも不思議です。たしか『麦秋』にあって、見るたびに居心地が悪いような良いような、くすぐったいような、妙な気持になるのですが、関係があるかどうかわかりません。
 『風花』のエンドロールで、ロートレックが自画像として、画のすみに小さく描いていたカエルを思い出し、奇妙な鳴き声をきいたあと、呆然と席を立ちました。『壬生義士伝』が実現していれば、受難し、昇天する侍が、様々なアイコンとともに、見ることができたのだと思いますが、『風花』は私にとって、最後の一撃となりました。 (同じ特集上映でみた川島雄三監督の『愛のお荷物』でもカエルが出てきました。恐ろしい偶然です。フィルメックスならではの、ある種の醍醐味でしょうか。)
 この上映企画は、大変な準備を乗り越えて、ついに実現したのだと思います。関わった方々に、深く感謝しています。「こんなに面白いのか」と、相米監督の映画の魅力が深く身にしみました。                                                                                          
 出版された関連本をこれから読み、あらためて特集上映を振り返り、国内外にかかわらず、来るべき次の機会に備えます。

●視点5 インターパーソナルというパーソナル ─ マイク・リー映画の“ネオリアリズモ”

吉岡ちはる(近畿大学文芸学部准教授)
ドキュメンタリーと“ネオリアリズモ”
 一般に、ドキュメンタリーの強い伝統を引いたリアリズムであるということになっている英国の映画は、作家主義が依拠する顕著な個人的なスタイルとは相容れないものがある、とイギリスの映画研究家パム・クックは書いている[1]。ドキュメンタリーやリアリズムに個人的スタイルがないという話からしてそもそもおかしいが、言われていることの意味は、理解できないこともない。ここで確認するまでもなく、スタジオ・システムによる娯楽生産物であると見做されていたハリウッド映画にあって、スタジオ・イデオロギーに屈しない独自のスタイルが数人の監督において見出せると論証したのが、作家主義の発端である。翻ってイギリスは、映画を撮るということが、基本的に巨大なスタジオ・システムのような大規模な資本主義機構、つまり莫大な金儲けとは縁がない土壌においてしか、営まれない国である[2]。強固なスタジオ・システムがない一方で、アルモドバルとスペイン映画とか、ウォン・カーウァイと香港映画とかいったアートハウス的市場戦略にも、イギリス映画はあまり馴染まない。マーチャント=アイヴォリーによる「歴史」の発見は一時期ブームになったし、多彩な映画を撮り国際的な注目を浴びながらハリウッドに行かない、スティーヴン・フリアーズのような監督もいる。とはいえ、スター・システムやアクションやけばけばしいCGとは無縁な市井の人物たちのナラティヴという特質は、イギリス映画の潮流として、根強く存在している[3]。ケン・ローチとならんで、現在そういうイギリス映画を撮っている監督の代表格は、マイク・リーである。
 マイク・リー自身、自分の映画はドキュメンタリーに限りなく近づこうとしているのだ、と言ったことがある。しかし、ここで彼の言うドキュメンタリーを、現実を自然主義的に撮ることだ、などと勘違いしてはいけない。映画作家が映画を語る、というシリーズでリーは、エルマンノ・オミノの『木靴の樹』(1978)を取り上げている[4]。この映画は、19世紀末のロンバルディア地方の農民のコミューンの様子を、80年後に同じ地域に住む素人をキャストに使って、全篇ロケーションによって再現したものだ。時代の差があるが、少なくとも彼らは、その気候のその土地で共同生活をしているという実感は、共有している。リーは『木靴の樹』が、彼のお気に入りの作家の1人であるサタジット・レイの映画にもまして、人々の人生の総合的なリアリティの感覚、人間の経験の本質に到達している、と絶賛している。リーがドキュメンタリーという言葉で意味しているのは、劇的なプロットの支配を受けず、生き生きした映像の流れによって、あたかもスクリーン上に現実のコミュニティを現出せしめたような、『木靴の樹』のような世界なのだろう。リーの映画には、オルミ的な世界への憧憬があるに違いない。『人生は、時々晴れ』(2002)で、ある一家を中心に、労働者階級の3家族の物語を並行させて、寂れた公営住宅のコミューン的風景を表現したり、『家族の庭』(2010)を四季の流れとして描いたりしているのは、『木靴の樹』の世界へのオマージュであるように思われる。
 『木靴の樹』を退屈だと言う人間がいるのは、彼らがどういう人間であるかを示しているだけだ、とリーは言う[5]。これに関して、ここにドラマティックなデータがある。アメリカのデータしかないのが残念だが、『ハイ・ホープス』(1988)以後のリーの10作品のうち、カンヌのパルム・ドールを取り、アカデミー賞にもノミネートされ、興行成績が1位の『秘密と嘘』(1996)が$13,417,292を叩き出し、最近の作品で興行成績5位の『家族の庭』が$3,205,706であるのに対し、『人生は、時々晴れ』は成績最低で、何と$201,546しかない[6]。『人生は、時々晴れ』は、イギリス本国で映画批評もするTVプレゼンターのジョナサン・ロスが、「こんな映画は見てはいけない」と喧伝した、いわくつきの映画である。「内容的にもスタイル的にも、ここには観客を魅了するものは何もない。キャストのメンバーがお互いこぞって、『普通』を演じようと張り合う演技の集積以上の、何物でもない」、とロスは映画をこき下ろす[7]。しかし「普通」を演じる演技の集積というのは、まさしくオルミやリーが志していることである。ここでのロスは、おそらく『木靴の樹』を退屈だと言う類の人間であることを、暴露しているのだろう。しかし話はそれに留まらない。ロスは、公営住宅の労働者階級の人間たちの赤裸々な人生模様を目の当たりにして、そのリアルさに胸ぐらを掴まれたような、動揺と居心地の悪さを感じたのではないか。つまりここには、静かな川は深く流れるといった意味で、きわめて深く強く激しい情感が、実現しているのだ。映画の興行成績にとっては残念な結果になったが、そのことは逆説的に、『人生は、時々晴れ』がオルミ的なリアリティに切迫したということを、示しているのではないか。

身体と食べることの過剰性
 リーの映画におけるそのような、胸ぐらを掴まれるように切迫した情感とリアリティは、どのように画面に現れているのだろうか。マイク・リーの映画の画面は、過剰性によって規定されている。人物の体型ひとつとってみても、おそらく他にあまり例を見ないほど、数々の巨体が繰り返し現れ、しばしば画面を占拠している。『人生は、時々晴れ』では、家族の食卓の場面の左3分の1が、息子ローリーの黒いTシャツを着た巨体によって覆われている。はち切れそうな白いパンツによってその膨脹感が効果的に増幅している黒い巨体の突出は、他の3人が食卓に向かって地味に食事をしているのに、ローリーだけが彼らに背を向け、膝に皿を載せてテレビの方を向いていることを示している。この家族は、父親も娘も同様な体型をしている。ローリーが、画面を圧迫する黒と白の巨体から発しているフラストレーションのオーラは、その背後にいる他の家族が抑圧している感情の、アクティング・アウトでもある。テレビ化された初期の舞台作品である『アビゲイルのパーティー』(1977)では、偶々妊娠したアビゲイル役のアリソン・ステッドマンが、その大きな身体をフリルだらけのオレンジのドレスでさらに膨脹させて、画面を占拠する。アビゲイルは、いらないという客たちに、酒やスナックを無理やり勧め、俗悪なポップソングを大きな音量でかけて踊り、大きな高い声で喋り続ける。ハイピッチで強迫的とも形容できそうな話し方と、身体の体積では、『秘密と嘘』の主人公のシングル・マザー、シンシアも、同系列に属している。しばらくぶりでシンシアの元を訪ねたやはり巨体の弟モーリスと話をするうち、感極まったシンシアは、雨がだだ洩れになっている2階の亡き父の部屋で、彼に抱きつく。不器用に服からはみ出た彼らの過剰な肉体が、やり場のない無力感を醸し出す。通常は副交感神経優位な人間性を現すことの多い肥満した身体は、リーの映画にあっては、抑圧された重く鋭角的な情感を溜め込んでいる。
 『人生は、時々晴れ』の父親フィルと、『秘密と嘘』のモーリスの両方を演じているのは、ティモシー・スポールである。ティモシー・スポールは、ヒッチコック映画におけるジェイムズ・スチュワート的存在を、マイク・リーの映画において体現している。TV作品を除き初めて出演したリーの映画『ライフ・イズ・スイート』(1990)においてスポールは、主人公の夫婦ウェンディとアンディの友人、オーブリーの役をやっている。オーブリーは、身体が大きいばかりでなく、着るものも動作も過剰である。野球帽を被り、真っ黒な大きな丸いサングラスを取ったと思えば、赤いトンボ眼鏡に掛けかえる。黄色いTシャツやオレンジ色のタンクトップ、それに極彩色のアロハパンツのようなものを履いている。オーブリーはシェフである。彼が開いたばかりのレストランのメニューは、牛の胃袋のスフレ、腎臓のラグーのパイ、オレンジジュースとジャムをブレンドしたソースを敷いた皿にヨーグルトを飾りその上に海老を“1本”載せた料理、脳の冷製、プルーンのキッシュ、ブラック・プディングとカマンベールのスープ、タンのルバブ・ホランデーズソースといったもの。リーは本物のシェフに、これらの料理が実際に可能かどうか打診した。現実性の領域にギリギリに滑り込んでいる、しかし実際性のない、存在そのものが過剰であるようなメニューたち。今でこそヌーヴェル・クイジーンはそれほど珍しいものでもなくなったが、1990年のイギリスでは、これらの料理はかなりover the topなものである。
 体型に可視的に現れている過剰性は、食べるという行為の過剰性と、密接な繋がりがある。リーの映画において食べることは、生きることのメタファーである。よく比較される小津の映画と同様、食卓やレストランなどで人が物を食べる場面を抜けば、リーの映画は成立しない。そして彼の映画の人物たちは、しばしば過剰に食べる。『人生は、時々晴れ』のフィルはタクシーの運転手で、世界大食い選手権というものがあるとすれば、うちの息子はチャンピオンである、と客に言って笑う。アビゲイルが食物を客に強要することも、同様に強迫的な身振りだろう。または、彼らは食べない。『アビゲイルのパーティー』と並んで有名なテレビ映画『5月のナッツ』(1976)の主人公のカップルは、絶対に動物を食べない。ベジタリアンは、当時はかなり珍しかった。それが何であろうと、必ず72回咀嚼しなければならないとキースに教えられているキャンディス・マリーが、でもそれがナッツの場合はいいけれど、マッシュルームだったらそれだけ噛むまでに喉を通りすぎちゃうけどどうしたらいいの、と無邪気に聞く場面は、リーの作品に数ある、秀逸なコミックな瞬間の一つだ。『人生は、時々晴れ』の、主人公の家族のシングル・マザーの隣人の娘ドナの夕食は、チップス2切れである。『ライフ・イズ・スイート』の双子の娘ニコラは、ローリーのように一人テレビに向かうどころか、食卓にすらつかない。彼女は何も食べず、煙草ばかり吸っている。「人頭税反対」と大書されたTシャツを着て、夜中にトランクを開けてはチョコレートをドカ食いし、毎晩それを吐く。リーの映画に出てくる特徴的な人物は、極端に巨体でなければ、しばしば痩せ細っている。
 このような存在の過剰性を抱えきれなくなったリーの人物の身体は、急に倒れることによって、その破綻を示す。『アビゲイルのパーティー』のアビゲイルたちの過剰なお喋りは、夫が心臓発作で死ぬことによって初めてフェードアウトする。オーブリーは、客の来ないレストランの中で、泥酔して卒倒する。しかしそのことは、オーブリーのレストランをウェイトレスとして手伝いに行ったウェンディが帰宅して、夫が独立を目指して買ったばかりのホットドッグ売りのバンの中から、『ハリーの災難』(1955)のハリーのように足を出して、やはり泥酔して倒れているのを見ることの、前触れに過ぎない。それは食品工場のような所で働いている夫アンディが、翌日スプーンに躓いて本格的に転倒し、全治6週間の骨折をするという身振りとして、反復される。彼が倒れることによって、一家の何かが劇的に変わるわけではないが、双子のもう一人の娘で、外見は男としか見えないナタリーは、夜な夜な吐いていることを親に言うべきではないのか、とニコラにそれとなく言い、ニコラは束の間、リラックスした表情を見せる。毎日不満の塊としてソファーに倒れ込んでいた、『人生は、時々晴れ』のローリーは、その動作が極まったかのように、ある日心臓発作で倒れる。ローリーの入院騒ぎは、冷え切った状態で停滞していた抑圧的な夫婦関係を、劇的に転倒させる。夫婦は転倒から這い上り、疲弊し枯渇していたお互いへの愛情を取り戻したように見え、一家が数日後ローリーの病室を訪れると、大きな窓から明るい光が、彼らを照射する。一命を取り留めたローリーは病院で、家では絶対に食べなかった魚やブロッコリーを食べたと言って、家族に自慢する。
 彼らと対照的な存在は、スーツを着たヤッピーである。例えば『ネイキッド』(1993)で、3人の女性がシェアしているフラットに鍵を使って侵入し、その1人をレイプする家主ジェレミーは、ジムで鍛えた美しい身体をしている。『キャリア・ガールズ』(1997)で、主人公の2人が学生時代に三角関係になり、今はスーツ姿の不動産屋になっている男が、彼女たちを全く覚えていないと豪語するのも、何の感受性もないことによって社会に適応している男の系譜を、引いているだろう。マイク・リーにおける身体そして食べることをめぐる過剰性は、感受性と情感を持ち過ぎている不器用な人物たちの人生の重みの、視覚的な表現になっている。

パラレル・ユニヴァースの作り込み
 『木靴の樹』は、失われた土のコミューンの、感傷性を排したノスタルジックな再現である。その世界の主役は、現地に住んでいる農民であるが、本当は時代が違うので、彼らの生活をそのまま映しているわけではない。その土地の季節と土の感覚を持っている素人の人間たちに、オルミが演じさせているのである。であるのにも拘わらずこの映画を見る者は、作りものの世界ではなく、本当に当時の生活を見ているような錯覚に、陥らないだろうか。リーは素人を使ってどのようにそれが実現できるのかと感嘆する。彼は絶対に素人は使わないからだ。俳優を集めてプロジェクトを始動するリーの頭には、物語のアウトラインが入っている。しかしそこには脚本はない。リーの映画作成のプロセスを特徴づける言葉は「即興(improvisation)」である。俳優たちは他の俳優たちの「台本」を、全く知らない。台本がないのだから当たり前なのだが、彼らは自分が映画の中で何番目に重要な役なのか、といったようなことは知らないし、そういう概念がない。映画の中で行動する彼らは、一人の人間として行動しているだけである。と言っても彼らは、自分を演じているのではない。自分しか演じられない俳優を、リーは使わない。だから彼らはスターのように、同一的に見えないのだろう。彼らの演じる人間は、現実の複数の人間に、そのソースを持っている。リーと役者は、自分の知っている人間がどのようかという話や、こういった人物はどうするだろうか、といった話をしながら、人物像を徐々に作り上げていく。現実のソースはあるが、それは徹底的に役者の記憶の中に作り上げられた、一個の「架空の」人物である。こういう人物はどういうところに勤めているか、と聞き、スーパーの化粧品売り場じゃないかしら、と役者が答えれば、リーは彼女を実際にスーパーの化粧品売り場で働かせる。人物が現在やっていることをやらせるだけではない。過去の記憶も作ってしまう。『秘密と嘘』のロクサンヌは21歳になるところだが、出演する人物たちは、リーが明かさない何らかの方法で、彼女の4歳のバースデイ・パーティーを、行ったことがある。映画の中にそのような場面は全く出てこないのだが、人物たちの記憶の中に、それは留められる。つまり俳優が演じる人物に完全になりきるように、過去から現在に至る詳細なメンタルイメージを、作り上げてしまうのである。家族役の役者たちは、あたかも実際の家族のように数カ月間を過ごし、実際の家族のような有機的なやりとりができるようになるまで、カメラが回されることはない。役者は自分でない全く違う人物を、自然に有機的に演じられるようになるまで、徹底的にパラレル・ワールドにおける存在を作り込む。だから台本は要らない。有機的な記憶に基づいているので、作りものの台詞を覚える必要がないからである。その人物になりきっている役者たちは、どんな事件が起こっても ― 彼らはどのような事件が起こるのか、全く知らない ― 、その人物として対応ができる。詳細は、その場その場の相互作用によって、自発的かつ創造的に作られていく。
 リーの映画は、自然をそのままに撮ったドキュメンタリーであるどころか、彼の指揮下に丹念に作り込まれた虚構の世界である。資金集めを除けば、自分の映画についてほぼ完全なコントロール権を持つ、とリーは言う。そこには、伝統的にイギリス映画には馴染みにくいとされた作家主義的な分析にも十分耐えうる、マイク・リーの刻印が押されている。しかし、マイク・リーの刻印とは、彼の映画が、パラレル・ユニヴァースにおける実在の人物を真摯に生き、表現する役者たちと、彼らが様々な人間たちの人生から吸収したリアリティのテクスチュアそのものであるという意味で、限りなくインターパーソナルなものである。『秘密と嘘』のホーテンスが検眼医であり、モーリスがカメラマンであり、『人生は、時々晴れ』のフィルがタクシー運転手であり、彼の妻のペニーが「タクシーには、ありとあらゆる人が乗るのよね」と言うとおり、リーの生業は、あちこちがいびつであるのかもしれない様々な人生を観察し、彼の映像世界のワゴンに載せて、観客に供することである。リーの映画が労働者階級の人間たちを見下したカリカチュアであるといった雑駁な批評は、そういう人間が、リーの人生を慈しむ眼に対して盲目であることを暴きたてているに過ぎない。マイク・リーの映画を真に特徴づけているのは、彼の言う意味でのドキュメンタリー的な、あくまでもインターパーソナルな創造性であり、幾重にも織りなす様々な人生が集合的に奏でる、深い情感なのである。

Works Cited

Boorman, John and Walter Donohue, eds. Projections 41/2. London: Faber and Faber, 1995.
Box Office Mojo. ‘Mike Leigh’.
http://www.boxofficemojo.com/people/chart/?id=mikeleigh.htm
Viewed on 29 January 2012.
Cook, Pam. ‘British auteurs’. In Cook, ed., 431.
Cook, Pam, ed. The Cinema Book, 3rd Ed. London: BFI, 2007.
Film 2001 and Jonathan Ross. ‘Jonathan Ross on … All or Nothing’.
http://www.bbc.co.uk/films/2002/10/15/film2k2_all_or_nothing_2002_article.shtml
Viewed on 30 January 2012.
Leigh, Mike. ‘L’Albero degli Zoccoli’. In Boorman et al eds., 113-17.
—, dir. The Mike Leigh Feature Film Collection. London: Spirit Entertainment, 2008. DVD Box set.
—, dir. Mike Leigh at the BBC. London: BBC, 2009. DVD Box set.
Monahan, Mark. ‘Film Makers on Film: Mike Leigh’.
http://www.telegraph.co.uk/culture/film/3584402/Film-makers-on-film-Mike-Leigh.html
Viewed on 29 January 2012.
Raphael, Amy, ed. Mike Leigh on Mike Leigh. London: Faber and Faber, 2008.

[1]Pam Cook, ‘British auteurs’.
[2]イーリングやハマーのような小規模なスタジオは存在し、そこには独自の問題があったが、それについてはここでは論じない。

[3]じつはこれについてはマイク・リー自身、資金が少ないとリアリズムしか撮れないのだ、と言っている。『秘密と嘘』の成功によって、次の映画には日本のJVCもスポンサーについて、今までよりもかなり多くの資金を取れた彼は、満を持して『トプシー・ターヴィー』を撮った。19世紀の大衆芸能、サヴォイ・オペラのギルバート&サリバンの伝記を元にした、コスチューム・ドラマである。歴史物のコスチューム・ドラマには、労働者階級のリアリティ・ドラマの数倍、数十倍のコストがかかる。アメリカでは『トプシー・ターヴィー』は、リーの映画としては2位の$6,208,548という興行成績を収めた。今のところ、その後に彼が撮った映画はすべて、リアリズムのスタイルに戻っている。

[4]Mike Leigh, ‘L’Albero degli Zoccoli’.

[5]Mark Monahan, ‘Film Makers on Film: Mike Leigh’.

[6]Box Office Mojo, ‘Mike Leigh’.

[7]Film 2010 and Jonathan Ross, ‘Jonathan Ross on … All or Nothing’.

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高木 創((株)東京テレビセンター音響製作技術部 東京芸術大学、九州大学非常勤講師)音響デザイン、録音、整音技師、映画音響論
松川俊夫(東北文教大学短期大学部人間福祉学科准教授)「映画の倫理コード」論