日本映画学会会報第24号(2010年8月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • 第6回全国大会は2010年12月4日(土曜日)、大阪大学にて開催されます。全国大会で個人口頭研究発表(25分発表+10分質疑応答)を御希望の方は本年9月19日までに500字程度の発表概要と仮題をお書きの上、日本映画学会事務局(cinema<atmark>art.mbox.media.kyoto-u.ac.jp [<atmark>に @を代入])までお申し込み下さい。そのさいe-mailの件名には「個人口頭研究発表」とお書き下さい。

●視点 「恐怖」(horror)の系譜 ― 感覚とゴシック・ノワール小川公代(上智大学外国語学部英語学科准教授)

 18世紀末から19世紀にかけて一世を風靡したゴシック小説は、現在のミステリー、ホラー、SF映画などの大源流と考えることができる。筆者の専門が『フランケンシュタイン』などのイギリス・ゴシック小説と身体の医文化言説であるいう理由から、その身体性に着目しながら、ゴシック・ノワールとの接点について書かせていただこうと思う。筆者が最も興味を持つのは、常に恐怖という感情に訴える読み物であった。「不可解さ」、「不気味さ」という後味を残す数々のゴシック小説を読む度、またホラー映画、とりわけクローネンバーグ作品(『ザ・フライ』、『ブルード』、『イグジステンズ』)、を見る度、その不気味さの正体を突き止めたいという欲求が湧きあがり、それがこれまで研究の原動力にもなってきた。
 E.T.A.ホフマンの短編小説『砂男』(1820)は、後年フロイトによって「恐怖の源泉としての不気味さ(uncanny)」を象徴するものとして紹介された。主人公ナタナエルは子どもたちが最も恐れる「砂男」(眠らないと目をえぐり取られる)の存在を信じ、恐怖におののく。彼は、スパランツィーニ教授の「娘」オリュンピアに恋をするが、彼女が実は自動人形であることを目撃する。そこには「砂男」に似た晴雨計売りコッポラの姿があった。教授が床に落ちていたオリュンピアの目をナタナエルに向かって投げるのだが、その瞬間から狂気がナタナエルを支配する。
 フィルム・ノワールの一つとしてジジェクが紹介しているゴシックSF映画『ブレードランナー』(1982, Ridley Scott)でも、「目」が中心的役割を果たしている。目は視覚を司る器官であるが、この映画では人間を定義するものの象徴として描かれている。コピーである「レプリカント」は人間にあまりに酷似しているので、目の微妙な反応を分析することによって識別する。レプリカントのしなやかな身体の動き、皮膚から流れ出る血、人間のような悲痛な表情は、デカルトの二元論から考えると、「魂」のないコピーの特徴としては理解できない。反対に、言語能力に乏しく俊敏な動きのできないボーリス・カーロフの怪物は、デカルト的発想から生まれたのかもしれない。
 メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』では、感受性を備え、苦悩を雄弁に語る怪物を描いている。つまり、ボーリス・カーロフのイメージとの齟齬は、思想の乖離ともいえる。崇高な精神(科学者)の目的(ユートピア実現)のために利用する手段でしかないはずの身体(怪物)が、自らの感受性でもって世界を解釈し、創造主であるフランケンシュタインに復讐するこの図式は『ブレードランナー』におけるバッティ(レプリカント)とタイレル(レプリカントの創造主)の関係性と一致する。フロイトはホフマンの描く「目」は去勢に対する恐怖心の表れであると述べたが、オリュンピア(人形)の目は、充血していて人間のように生々しい(blood-flecked)ことに対する恐怖だと理解するほうが自然である。機械的存在(手段)が感受性や生命力を備えるおぞましさは、近代科学至上主義にとって脅威であることの表象ともいえる。
 日本では、押井守監督の『攻殻機動隊(Ghost In the Shell)』、『イノセンス』が同様のモチーフでディストピアの未来社会を描いている。実写では描ききれない風景やアンドロイドの身体内部のディテール(人工の眼球、神経管、内臓など)の書き込みも徹底している。全身サイボーグ化された主人公の草薙素子少佐は、「自分はとっくの昔に死んでいて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いや、そもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないか」と自分の存在自体を疑う。主人公(デッカード)自身がレプリカントである可能性を示唆する『ブレードランナー』もまたポストモダン的主体がテーマである。少佐も、デッカードも指名手配者を追いながら、自分の存在(identity)を究明するというノワール的要素と、量産された人形(アンドロイド)が意志を持ち動き出すという不気味さが融合している点において、この二つの映画はゴシック・ノワールといえるのではないか。
 「精神と身体」、あるいは「人間と機械」の境界線の浸食は18世紀のフランスの医師ジュリアン・オフレ・ラ・メトリーの『人間機械論』ですでに議論されていた。この境界線をあいまいにするものが視覚、聴覚、触覚などの感覚だといえる。18世紀中葉までは、デカルト的な二元論(霊的な魂と機械的な身体機能)が広く受け入れられていた。ところが、18世紀のラ・メトリーやロバート・ウィットらの神経生理学の到来により、神経には感じる力が備わっており、それらが身体内部において共振(共感)する、いわゆる感覚原理(sentient principle)を形成すると考えられるようになった。これにより、精神と身体が一体化した「感じる主体」というロマン派的な自己のイメージが確立した。これは、奇しくも読者に「恐怖」(horror)という感情を喚起するゴシック小説の全盛期と時代を同じくする。
 S.ソンタグが『惨劇のイマジネーション』の中で言っているように、サイエンス・フィクション映画の定型が「怪物」や「宇宙人」の到来であるというなら、ゴシックは「内部」に何らかの衝撃をはらんだ状態をいい、読者は作者の巧みな感覚的描写により「内部」に招かれる。そういう意味で、マシュー・ルイスなどの身体的な怪奇物語は興味深い。スーパーナチュラル(超現実主義)なものを扱うにしても、『マンク』(1796)は血を流した修道女が幽霊として登場し、ある種の視覚的刺激を受ける。チャールズ・マチュリンの『放浪者メルモス』(1820)では登場人物の身体が恐怖のあまり膨張し、地下の回廊から抜け出せなくなる。このように、ルシファー(サタン)的な存在であるメルモスが標的に与える身体的・心的苦痛は主に登場人物の感覚を介在して語られる。精神病院に入れられた(正気の)標的は狂人の叫び声(聴覚)から逃れられないし、修道院の地下牢に入れられた標的はその床や壁の冷たさ(触覚)に耐えるしかない。『Xファイル』が(たとえば『トワイライト・ゾーン』よりも)生物学的視点から不気味さを演出しているのと同様に、ゴシック小説の多くは、怪奇現象をより 身体的(palpable)な恐怖として感じられるよう描かれている。アン・ラドクリフの『ユードルフォの謎』(1794)、『イタリアン』(1797)はその典型的な例といえよう。つまり、作品中に登場人物の「苦痛」、「恐怖」が演出された場面を組み込むだけでなく、読者(観客)の身体への刺激作用も十分計算されているのだ。この作用がラドクリフのいう「恐怖」(horror)の萎縮作用である(horror contracts, freezes, and nearly annihilates the passions)。つまり、恐怖小説・映画は最も生物学的なジャンルだといえる。
 ファウスト的な作品(マーローの『ファウスト』や、マチュリンの『メルモス』(1820))やヴァンパイア物語(シェリダン・ラファヌの『カーミラ』(1872))においては、有機的身体(organic body)への執着(監禁)が恐怖の対象となる。アラン・パーカー監督の『エンジェル・ハート』(1987)の主人公、私立探偵ハリー・エンジェル(ミッキー・ローク)は、ルイ・サイファー(ロバート・デ・ニーロ)に依頼された事件を調査していくうちに、抑圧していた自分の過去の記憶が掘り起こされる。ただし、その「真実」が、実は依頼者こそが自分の魂を回収しにやってきた悪魔ルシファー(Louis CyphreはLuciferを捩っている)であったという点において、ゴシック・ノワールといえる。
 サイファーは「ジョニー・フェイヴァレット」という人物を探してほしいとハリーに依頼していたが、最後に導き出される真実はハリーにとって耐えがたいものである。黒魔術をつかってルシファーを呼び寄せたジョニーが生贄として選んだ少年がハリー自身であったのだ。つまり、自分がジョニーであるという事実を突き付けられる。スーパーナチュラルな現象を題材としながらも、フラッシュバックでよみがえるハリーの記憶はどれも鮮明で、生々しい。また、ハリー(=ジョニー)は呪われた自分の肉体から抜け出すことができないという究極の恐怖を味わう。『ブレードランナー』と『エンジェル・ハート』の映画に共通するのは、彼らの調査工程が暗い夜道を淡い光を放つ街頭を頼りに進む典型的なフィルム・ノワールの探偵のように、不確かで危険が多い。主人公を待ち受けるのは、呪われた自分の身体と対峙しなければならないという袋小路(dead end)だが、まさにラドクリフの『イタリアン』に登場する主人公が、悪漢の手を逃れようと脱出を試みるも、迷路にはまり行き止りで立ち往生するイメージとよく似ている。
 専らゴシック研究をしている筆者にとって、フィルム・ノワールは非常に興味深いジャンルである。映画は視覚的、聴覚的情報が与えられるメディアであることを考えると、鑑賞時の「情動作用」(affect)は今後の課題としたいところである。「不気味なもの」が文学作品でどのように言葉で描写されるのか、を映画を分析対象とすることによってより多角的な視点から考えてみたい。

引用文献
Badley Linda, Film, Horror, and the Body Fantastic. (Westport, CT: Greenwood, 1995).
Steven Bruhm, Gothic Bodies: The politics of Pain in Romantic Fiction. (Philadelphia: Universtiy of Pennsylvania Press, 1994).
Thomas Elsaesser and Malte Hagnener, Film Theory: An Introduction through the Senses. ( New York , London : Routledge, 2010).
Sigmund Freud, The Uncanny. Trans. David McLintock. (Harmondsworth: Penguin book, 2003).
Jack Morgan, The Biology of Horror: Gothic Literature and Film. ( Carbondale and Edwardsville: Southern IllinoisUniversity Press, 2002).
Slavoj Zizek, ‘“The Thing That Thinks”: The Kantian Background of the Noir Subject’ in Shades of Noir. Ed. Joan Copjec. (London, New York: Verso, 1993).


●書評 ザビーネ・ハーケ著『ドイツ映画』山本佳樹訳(鳥影社、2010年)

田中雄次(熊本大学名誉教授)

 本書『ドイツ映画』(原題は”German National Cinema”)は、アメリカ在住のテキサス大学ドイツ学部ドイツ文学文化講座のザビーネ・ハーケ教授ひとりの手になる最初のドイツ映画史である。その一貫した視点によって、個々の時代のあいだの連続性や断絶が見事に浮き彫りにされている。
 本書には、英米流の映画研究の刺激を受けた成果が色濃く反映されている。訳者があとがきで述べているように、英米の映画研究におけるジャンル映画論、ジェンダー論などに依拠しつつ、ジャンル映画(本書では娯楽映画とほぼ同義に用いられている)とそれに対立するカテゴリー(芸術映画、政治映画、作家映画など)とのせめぎあい、各時代における男性スターと女性スターの機能の比較などが本書の基軸になっている。
 本書の構成は、「序論」、「ヴィルヘルム時代の映画 一八九五~一九一九年」、「ヴァイマル共和国の映画 一九一九~三三年」、「第三帝国の映画 一九三三~四五年」、「戦後期の映画 一九四五~六一年」、「東ドイツの映画 一九六一~九〇年」、「西ドイツの映画 一九六二~九〇年」、「統一後の映画 一九九〇~二〇〇七年」の七章で組み立てられている。ここで特筆すべき点は、東ドイツ映画の始まりを壁建設の一九六一年に設定し、西ドイツ映画の始まりをオーバーハウゼン宣言が出された一九六二年に設定したことと、戦後期の映画を取り扱う時期(一九四五~六一年)の設定によって「第三帝国の映画と五〇年代の映画との関係、壁の建設以前の東西ドイツ映画間の往来や照応性」(訳者)が明らかにされたことである。
 まず、本書全体を読んで感じたことに触れ、そのあとでそれぞれの章で明らかになる新しい着眼点などを見ていくことにする。
 各章の多くで著者は、すべてに疑問をもち、世界はどのように見えるのか?どこにどのような問題があるのか?なぜそれは問題といえるのか?といった問題提起を繰り返し、できるだけそれらの疑問に丁寧な説明をしている点である。さまざまに疑問をもち、解決していかなければならない、対話は主張や説得ではなく、疑問によって成り立っている点にあるという真摯な姿勢が根底にある。現在注目を浴びているフィンランドの教育方法も「なぜ?」を追求することによって、あらゆる状況の認識と分析を図ることを特徴としている。つまり、マクロの「なぜ?」―「なぜこの状況が『問題』といえるのか?という発想―と、ミクロの「なぜ?」―思いつく限り目の前の状況を「なぜ?」で埋めつくすことによって、状況認識と分析を図っているのである。
 「序論」は全体を俯瞰した重要な視点を提供する。とりわけ、映画を 国民的ナショナル なものと 越境的トランスナショナル なものとのあいだ、ローカルなものとグローバルなものとのあいだに位置するものと捉え、社会史や文化史の不可欠の要素として見ていることである。また、原題ともなっている 国民ナショナル・ 映画シネマ をどのように定義するかの多くの問題提起は、映画研究にとってきわめて重要な示唆を与えてくれる。国民映画の特徴は、経済的・政治的・美的な力によって決定されるのか、究極の参照項は国民国家なのか、公共空間なのか、共通の言語や文化や歴史的性格からなる、よりつかみどころのない混合物なのか、あるいは国民映画はほかの国民映画との対立、それもほとんどの場合、ハリウッドに対する抵抗や排除や競争というかたちで呼び覚まされるものなのかといった問題提起がなされている。本書はそれらの問いに可能な限り言及し、誠実に答えようとしている。
 著者は、ドイツ映画の特質についてもさまざまな問題を提起したあとで、多くの研究を参照しつつ、国民映画という概念は外国の影響や国際的な発展やグローバルな諸力を認めることなしには喚起しえないものであり、国民的なものが内的な整合性の所産であり、排除と区別の産物であると指摘している。
 以下の章では、問題の多い国民文化や国民性という概念についての定義にすべてを組み込んでしまうのではなく、国の伝統と地域の伝統のあいだの、国民的な視点とグローバルな視点のあいだの、そして国民についての文化的定義と経済的定義と政治的定義とのあいだの、それぞれの緊張関係に注意が向けられている。さらに焦点のドイツ映画史の記述に関する重要な新しい視点は、スター現象の機能に関する記述と、芸術映画と娯楽映画との継続的な妥協の産物である点を際だたせて記述していることである。
 第一章「ヴィルヘルム時代の映画」では、知覚と経験の新しい形態を育成し、ファンタジーと現実との境界線を引き直す、強力な技術としての映画の機能についての根本的な多くの問いが投げかけられる。なかでも、初期映画ビジネスに見られる国際性、および、初期映画の形式やスタイルに見られる混合主義のなかから国民映画が出現してきたことを、どのように位置づけることができるかという問いは重要である。また、ヴィルヘルム時代の映画が文化と社会というより大きな関係、およびその構成要素である緊張や矛盾と切り離せないことを論証していく論の展開は鮮やかである。 後半では、国民映画の諸要素として、この時期に確立されたスター・システム、ジャンルとしての娯楽映画(コメディ、メロドラマ、探偵映画、幻想映画)と芸術映画(おもに有名な文学者による作品の映画)が記述される。
 第二章「ヴァイマル共和国の映画」は二十世紀ドイツ文化の本質的要素として本書の中で最も多くのページが割かれている。ここでもヴァイマル時代だけでなく、ドイツ映画全体、および芸術と政治と娯楽のあいだの継続的な交渉にとって重要な数多くの問題が提起されている。また、ヴァイマル映画をその生産的な緊張関係によって集約している点は大いに参考になる。つまり、大衆娯楽の言説と映画芸術の言説とのあいだの緊張関係であり、均質的な大衆文化への要求と階級を意識した映画への要求とのあいだの緊張関係であり、芸術的・技術的な品質の重視と過度の逃避主義や通俗性とのあいだの緊張関係であり、自立を求めつつ保護貿易政策を必要とするという映画産業の二つの要求のあいだの緊張関係であり、ドイツの伝統の増進とアメリカのスタイルの模倣とのあいだの緊張関係であり、さらには、ナショナリズム的政策の宣伝とヨーロッパ共同作業への信念とのあいだの緊張関係である。
 第三章「第三帝国の映画」においても、一連の重要な問いが提起されている。なかでも、これまでの映画史家の研究対象が全製作数の十パーセントにすぎないプロパガンダ映画に限定され、膨大な数のジャンル(娯楽)映画が無視されていたことの指摘が重要である。そして、「映画」対「政治」、「プロパガンダ」対「娯楽」、「芸術」対「イデオロギー」といった二元論的概念を乗り越えるような議論を展開する。第三帝国の映画が、娯楽とプロパガンダという矛盾した機能を果たしながら、「大衆的傾向と政治化された態度の両者を調停する妥協の産物であり続けた」ことを、政治映画と娯楽映画の分析を通して解明している。
 第四章「戦後期の映画」では、一九四五年から一九六二年までの映画が、のちの「若いドイツ映画」の監督たちによる一九六二年のオーバーハウゼン宣言によって完全に放逐され、様式やテーマの強い類似性が無視されてきたことを指摘する。そして、一九四五年以降に製作された映画は、形式の点でも主題の点でもウーファの伝統の圏内あるものと位置づけ、ドイツ映画の連続性に触れている。また、西ドイツの研究者たちは、この時代のジャンル映画を批評的な注意を向ける価値のないものと見るか、戦後の歴史と社会というより大きな文脈における社会心理学的な読みに限定するかのいずれかであったことや、東側地域に創設されたドイツ映画株式会社(デーファ)製作の映画に関する記述は、少数の名作に集中して、社会主義のジャンル映画を作ろうとした努力はほとんど無視されてきたことが批判的に語られる。
 第五章「東ドイツの映画」ではまず、一九六一年八月一三日のベルリンの壁の建設が、東ドイツの政治的・経済的・文化的アイデンティティを安定化させ、そのことが戦後映画を二つの 国民ナショナル 映画・シネマ へと分割する過程を完成させたことを指摘する。東ドイツの映画は、国有会社における映画と政治の関係、国民アイデンティティ形成への映画の寄与、映画とその他の芸術形式や大衆娯楽とのあいだの相互交流についての問題を提起している。著者はこれらの根本的な問題について、具体的な作品を通して、党と映画製作者のイデオロギー上の深い分裂や、さまざまに分化していく観客層に焦点を合わせて分析を行う。そして、東ドイツにおいては、すべての観客をひとつの集団として語りかける国民映画の概念は、社会的観点においても、美的観点においても支持されなくなったことを明らかにする。
 第六章「西ドイツの映画」では、戦後期の映画との断絶を告げる、「若いドイツ映画」の代表者たちによる一九六二年二月二八日のオーバーハウゼン宣言(「古い映画は死んだ。われわれは新しい映画を信じる」)を西ドイツ映画の出発点に据える。彼らがまず目指したのは、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが既存の質的伝統に反旗を翻したのとは異なり、まず芸術映画を確立し、その文化的意義を実証することであった。しかし「新しい始まりという神話」は五〇年代と六〇年代のあいだの少なからぬ連続性から目をそらせるというマイナス面も生むことになる。「若いドイツ映画」の六〇年代のあとの七〇年代の記述では、ファスビンダー、ヘルツォーク、ヴェンダースに代表されるニュー・ジャーマン・シネマの新しい感性が、映画館を新しい公共圏へと変化させ、映画を観に行くことを、単なる経験の希求と、より直接的に結びつけることになったことを具体的事例によって明らかにしていく。続く政治的にも美的にも保守的であった八〇年代は、八二年のファスビンダーの死によって、形式的革新と政治的挑発の力が失われ、危機と変容の時期を迎えたこと、国民映画の支配的なモデルとしての芸術映画の衰退によって、多種多様な観客層や少数派の趣味を養成することにつながったことが示される。はじめにも触れたが、この章でも映画史を政治的・経済的・社会的・文化的関連のなかで位置づけ、テキストよりもコンテクストに重点を置いて記述するという本書の特徴が遺憾なく発揮されている。
 第七章「統一後の映画」では、ドイツとヨーロッパにおける映画製作が 越境的トランスナショナル な事柄となり、ドイツ映画を構成するものは何かという定義づけが困難になっていった過程が語られる。そして、ドイツ映画産業の復活、EUの拡大などによって、多くの外国生まれの映画人がドイツにやってくるようになり、越境、多重アイデンティティ、文化横断的な遭遇についての物語、雑種化が生まれ、二〇年代のフィルム・ヨーロッパを想起させる状況が現出していることを指摘する。こうした根本的な変革の影響は、ドイツ=トルコ映画という現象と、新しい国民アイデンティティやポスト国民アイデンティティの工事現場となったメトロポリス・ベルリンの空間的イメージにもっとも明白に表れてきていることをかなりのページを割いて明らかにしている。こうした越境的な映画製作・配給・受容の時代にあって、国民映画が活力を保ち続けられるかどうかを、著者は「映画製作者たちが、新しい情報・コミュニケーション技術による挑戦に反応し、デジタル・メディアの時代における映像と観客の概念の変化に対処する、その仕方にかかっている」と見る。そして最後に著者は、映画の未来について十の問いを投げかけて本書を締めくくっている。そのうちの一つは次の問いである。「映画には二一世紀にもまだ未来があるのであろうか。それとも、映画製作と興行におけるデジタル革命は、物語映画の形式言語を余計なものにし、一方では、リアリティやリアリズムとの、また他方では、ファンタジーやイリュージョニズムとの、物語映画の関係を、根本的に変えてしまうのであろうか。」
 本書は、各章で読者に対して多くの問いを投げかけ、それらの疑問を自ら点検するかのように論を展開している。すべての問いに答えを見出すことは容易ではない。しかし、四方田犬彦氏が『「七人の侍」と現代』(岩波新書、2010年)のなかで述べている、「問いにおいて重要なのはその対象ではなく、問いそのものがもつ強さなのだ」というあらゆる学問に通ずる「問いの強さ」を本書から読み取ってほしいと思う。
 本書は、訳者が「あとがき」で書いているように、「映画史という断面図を通して語られた、ドイツ現代史のドキュメント」であり、単なるドイツ映画の入門書の枠を超えて、より広い領域へと導く好著である。繰り返される改訂版による大幅な変更や映画題名の訳語の確定にご苦労されながら、読みやすい見事な翻訳を実現された山本佳樹先生に心からの敬意を表したい。 


●書評 杉野健太郎責任編集『アメリカ文化入門』(三修社、2010年)

川本 徹(京都大学大学院人間・環境学研究科・
日本学術振興会特別研究員DC)

 たとえそう願わざるとも、自由と民主主義を伝播するアメリカから自由でいることが許されないこの現代世界。そのなかで、われわれは超大国アメリカにどのように向きあえばよいのだろうか。今日ますます脱文脈化し、あまねく世界中に伸び広がってゆく奔放自在なアメリカ文化を、どのように受けとめればよいのだろうか。事態は混迷をきわめている。アメリカが世界随一の政治的、経済的、軍事的影響力を誇っていることは誰の眼にも明らかなとおりであるが、しかし他方で、そうした国際的覇権にもかかわらず、経済と情報のグローバルな運動によって多数性多様性を維持しつづける世界を、アメリカは完全にはコントロールできていないからである。かくしてアメリカ理解がわれわれにとってこれまで以上に切実で、しかも難渋な課題となっていることは、広く共有されている感覚にちがいない。だからこそ、とくに冷戦の終結以後、多彩な研究領野の論者たちによって、現代のアメリカと、アメリカがその絶対的中心に居座る(ことのできない)世界状況を把握するための思想的営みが、さまざまに繰り広げられてきた。それらは今後さらに高度化され精緻化されてゆくであろう。建国以来、つねに時代の変化の先頭に立ってきた国家にふさわしく、アメリカ研究はたえず更新と拡大と深化をかさねてきたが、その傾向は昨今弱まるどころかむしろ強まっていると言ってさしつかえないのである。
 しかしそれだけに、今日、アメリカ研究の入り口に立ったばかりの初学者が、その変貌しつづける研究領野を眼のあたりにして、戸惑いを抱かざるをえないのもたしかである。無論、それがいまだに日本人にとってごく身近であるかぎりにおいて、アメリカ文化に局所的に興味を覚えることはたやすい。だが、そうした興味を知的主題にまで発展させるべく、アメリカ文化の全体像に位置づけようとする段になると、そのあまりの広大さと複雑さに途方にくれてしまう学生はすくなくないはずである。あるいは、そのスタートラインから一歩踏み出せたとしても、ときにふとみずからの立脚点を見失い、足元が不安になってしまうこともあるだろう――かくいう評者がその経験者にほかならないのだが。しかしながら先ごろ、そうした不安をみごとに吹き飛ばしてくれる、アメリカ研究の出発点と回帰点に置かれるべき好著があらわれた。「アメリカという他者と辛抱強く向き合い続けるであろう読者諸氏の持続可能なアメリカ文化学習および研究の最初の手ほどきとなり羅針盤となること」(3)を目標に掲げた、杉野健太郎責任編集『アメリカ文化入門』がそれである。
 実際、まずもって現在の大学1・2年生、つまりは1991年のソヴィエト連邦崩壊の前後に生まれ、2001年9月11日の同時多発テロ事件を小学生のときに経験した世代に向けて差しだされた本書は、全11章、堂々の420ページのなかで、彼ら/彼女たちがそうしたアメリカを取りまく同時代的混沌を生き抜くために必須の基礎知識を、満遍なく、きわめて読みやすい文体とレイアウトで紹介している。文学や大統領といったおなじみの話題は言うまでもなく、スポーツやジェンダーといった新時代にふさわしい話題も抜かりなく論及されている。もっともそれは、かならずしも最新の研究成果が華麗にちりばめられているという意味ではない。むしろ話題の新旧を問わず、読者がいたずらに多様化する情報にふりまわされることがないように、アメリカ文化を歴史的に、言いかえれば普遍性の装いをまとう傾向のあるアメリカ文化を、いま一度その生成の文脈に押しもどして深く理解することを、本書はめざしていると言ってよいであろう。
 そのことは本書の全貌をつぎのように辿るだけでも立証されるはずである。執筆者たちが言明しているわけではないが、本書は大きく三つの部分に分類できると思われる。まず第1章から第4章では、アメリカの国家理念、地理、歴史と文学、宗教が概説される。アメリカは理念先行型の国家であると言われる。その理念と現実のあいだの葛藤を歴史的に追尾し、アメリカのイメージの輪郭を描くのが第1章「アメリカとは何か」であり、それにつづく三章でアメリカの地理、歴史、宗教が開陳されることによって、読者の脳裡でアメリカのイメージがさらに鮮明化されてゆく。わけても第3章「アメリカの歴史と文学」では、文学を語ることと歴史を語ることは切り離しえない、という視点から、アメリカ史とアメリカ文学史が一挙に語られており興味ぶかい。アメリカ史の息吹があざやかに、そしてダイナミックに伝わってくる一章である。かわって第5章から第8章では、アメリカの美術、音楽、映像文化、スポーツが主題となる。いずれの章にあっても、各分野の短いながらも充実した発展史が、それにふさわしいスピード感あふれる筆致で、多数の図版とコラムとともに精力的に紹介されている。ノーマン・ロックウェルからジョージ・ガーシュウィンまで、フランク・キャプラからジャッキー・ロビンソンまで、アメリカ文化の真髄が集結するこの中間部は、強豪野球チームの中軸打線さながらに、それを見る/読む者の関心をもっとも惹く箇所にちがいない。そして第9章から第11章では、アメリカの大統領と政治経済、ジェンダー、外交政策が解説される。音楽や映画といった狭義の文化につづいて、広義の文化が主題化されているのである(本書は文化を「人が形作った物心両面での成果」[3]と定義している)。第11章「世界のなかのアメリカ」では、第1章でも注目されていたアメリカの理念型の体質にふたたび光が当てられていることも言い添えておきたい。比喩的な言い方をするなら、このアメリカの国家的特質のあいだに具体的文化現象を挟みこんだサンドイッチ型/ハンバーガー型の構成によって、読者はアメリカ文化を文字どおり重層的に味わうことができるのである。
 さて以上が『アメリカ文化入門』の全体像であるが、ここで本学会ともっとも関連の深い、第7章「アメリカの映像文化とメディア」の内容をさらに詳しく紹介させていただきたい。一読してわかるように、おもにハリウッド映画を論じた本章は、ある興味ぶかい戦略のもとに叙述されている。映画の話法と産業構造の変遷に、議論の焦点がはっきりと絞られているのである。そしてそうした戦略ゆえに、本章は数あるハリウッド映画史のなかでも、際立ったわかりやすさを獲得していると思われる。一人の芸術家の創造物ではなく、大量の資本が投下された商品であるというミディアムの特性上、映画史は絵画史や写真史にくらべると往々にして記述が錯綜しがちであるが、本章は議論の照準を上述のごとく絞ることによって、かかる陥穽をみごとに免れているのである。見せる映画から物語る映画への変化、スタジオ・システムの成立、縦の系列化の確立、古典的ハリウッド映画の完成、テレビと映画の相関関係など、映画史の最重要項目がつぎつぎにテンポよく語られる本章は、別段アメリカ映画にかぎらず、これから映画を研究しようという学生にまず眼をとおしてほしい30ページに仕上がっている。本章を読む過程で時代史が気になれば、先述した本書第3章「アメリカの歴史と文学」が参考になるし、さらに具体的にどの映画を観るべきか迷ったときには、本書巻末に添付されているAFI(アメリカ映画協会)の映画ランキングがひとつの指針になるだろう。映画監督やスターについての情報は本書以外で仕入れるほかないが、ともあれ本章を読むことで映画史の適切な見取り図が手に入ることはまちがいない。
 ところで、第7章「アメリカの映像文化とメディア」には、初学者の背景知識を吟味した上での記述内容の濃淡が見られることも指摘しておきたい。映画の話法と産業構造の変遷がひととおり解説されるなかで、初期映画の特質とテレビと映画の相関関係がかなり重点的に論じられているのである。管見によれば、この二箇所が本章のハイライトである。ある程度映画に通暁した者にとってはすこぶる興味ぶかい、しかし初学者にとってはしばしば縁遠く感じられる初期映画の見どころを、代表的作品にショット単位で言及しながら懇切丁寧に解説した箇所。そしてときに単純素朴な敵対的・競争的構図に回収されがちなテレビと映画の相関関係を、産業論とテクスト論の双方から複合的に語り直し、そのメディア交流史的な意義を浮き彫りにした箇所。限られたスペースのなかでも可能なかぎりテクストの肌理――ときに「アメリカ映画の父」と称されるD・W・グリフィスの『ドリーの冒険』(1908)の川を流れる樽のショット、『灰色の服を着た男』(1956)のグレゴリー・ペックの帰宅シーン等々――に寄り添いながら、映画史における諸力のせめぎあいを垣間見せてくれるこの二箇所が本章の読みどころである。
 以上、第7章の内容を見てきたが、ここでまた各章間に認められる主題論的な連係と、それがもたらす生産的な効果にも言及しておきたい。各章の執筆者が重複していることもあってか、本書には、あるときは明示的に、あるときは暗示的に、別の章への参照をうながす箇所が散見されるのである。読者はこれを思考開拓の糧にできるのではあるまいか。一例として、第8章「アメリカのスポーツ身体文化」中の「フィールド・オブ・ドリームス」と題されたコラムに眼をむけてみよう。映画『フィールド・オブ・ドリームス』の魅力や、野球場建設におけるジェファソン的田園理想の影響に触れた本コラムは、スポーツを主題とする本章を、アメリカ映画史やアメリカの国家理念や地理を主題とする先行各章(第7章/第1・2章)と有機的に結びあわせ、結果として読者をさらに広大な問題領域へと導きうる。すなわち、アメリカ映画史におけるスポーツ表象、アメリカ景観史に見られる田園理想の変遷など、本書の射程を超える問題系を浮上させうるのである(複数の主題間の交通が読者の知的フィールドを刺激する)。あるいは別の事例として、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』が文学史のみならず、国家理念史、交通史、スポーツ史のなかでも言及されていることに着目してもよいかと思うが、大学1・2年生の読者は、こうした各章間の有機的連関に積極的にこたえることによって、将来の卒業論文のテーマをいち早く効果的に検討できるのではないだろうか。すくなくとも、文化的テクストを多角的に読み解く素養が身につくことはたしかであろう。
 そして本書で得た着想をさらに発展させるには、本書巻末の文献案内「さらに学びたい人への案内」が大いに参考になる。入門書に文献案内はつきものであるが、本書の文献案内の充実ぶりは眼をみはるものがある。なにしろ各章にまつわる重要文献が、こまやかな分類のもと25ページにわたって多数掲載されており(たとえば第7章「アメリカの映像文化とメディア」については、「映画事典・辞典」「映画・映画監督・スター紹介」「現代メディア史の中の映画」「ハリウッドと検閲」といった下位区分ごとに日本語・英語文献が数点ずつ並べられている)、さらには必要におうじて、著者たちによる有益なコメントが付されているのだから(たとえばJon Lewis, American Film: A Historyには「年代順に書かれた通史としてのアメリカ映画の入門書。英語はそれほど平易ではないが、各章のはじめとおわりにサマリーがあるので、内容は理解しやすい」というコメントが寄せられている)。要するに本書にあっては各章間の連係のみならず、つぎの一冊への連係も言い忘れることのできない美点となっているのである。
 「本書を読めば、アメリカがすみずみまでクリアに見えてくるであろう」(3)――巻頭に記された著者一同のこの言葉に偽りなしと気づくのに、本書を繙読しはじめてからさほど時間はかからないはずである。『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』や『フィルム・スタディーズ事典 ― 映画・映像用語のすべて』等の御訳業で知られ、本学会でも創設以来、学会誌編集委員長を務められている杉野健太郎先生の責任編集ならではの、細部の細部まで配慮のゆきとどいた啓蒙的な一冊である。アメリカ文化入門書の決定版の登場を心から喜びたい。そして大学でアメリカ文化を専攻する学生のみならず、アメリカ文化に関心を持つすべての人に本書を手に取ることを強くすすめたい。アメリカ文化の強力な伝播力に、その比類なき生命力に、ナイーヴな好悪感情を超えて息長く対峙するための入り口がここにある。


●書評 下楠昌哉責任編集『イギリス文化入門』(三修社2010年)

井谷善惠(多摩大学グロバールスタディーズ学部講師)

 まず、本学会関連の映画分野だけでなく、イギリス文化を理解するための最良の書として、今回『イギリス文化入門』の発刊を心から喜びたい。否、本書が発刊されてはじめて、何故このような本がいままで出ていなかったのかと疑問に思う。本書と同時期に発刊された『アメリカ文化入門』と併せて、英語及び英語圏に関する入門書として最適であると自信を持って推薦する次第である。
 我が国において英語は中学義務教育における第一外国語としての語学だけではなく、多くの日本人がIT関連をはじめとして、いまや英語なくしては日常生活についても非常に不便を覚える。そのような状況において、下楠昌哉氏を編集責任者として、杉野健太郎氏を中心に英語及び英国文化圏について論究された本書は、英語を必要とするすべての人にとって必読の書である。
 ここで書評者(以下評者)として、あらかじめ著者と会員諸氏におことわりを申し上げると、評者は言語学または文学としての英語および英国文化を専門としているわけでない。ただ、イギリスの大学院において学んだ者としての観点から本書の書評をお引き受けした次第である。「おわりに」で述べられたように「大学1・2年向きの適切な入門書」というだけでなく、滞英生活が延べ10年を越え、彼の地における大学院で学んだ評者にとっても本書はまさに座右の銘ともいうべき優書である。在英期間中、なんとなくわかったつもりのこと、肌で感じていたイギリスの習慣や文化、風俗が、本書を読んで初めて納得した個所が多くあった。
 何故、このような本が今まで出版されていなかったのかという疑問に対しては、本書の「はじめに」で明確に述べられている。すなわち「類書が相次いで出版されているということは、決定版に至っていない」という事実である。それをふまえて、本書を嚆矢として、持続可能なイギリス学の手ほどきとなる本の刊行をこれからも望むという真摯な執筆者たちの熱気に支えられて本書は刊行された。全体で12章からなり、その構成に従って紹介させていただく。
 第1章「イギリスとはなにか」の冒頭に、それは「簡単に説明できることではないし、また、概念やその扱いにくさについて、何度なく言及してゆく」とある。その言葉どおりイギリスという国と文化を概念づけることの難しさが、何度も章を変え、筆者を変えて繰り返し語られる。「ある特定の国家の一国民であるという立場は、一般に思われているほど、安定しているものではない」というテクストが本書を読み始めた読者に対してまず提示される。ユニオンジャック旗やイングランドという固有名詞がイギリス全体を表すのではないというイギリス人にとって当たり前のことを認識させる。上述の『アメリカ文化入門』においては、アメリカも「一言で言い表せない」としながらも、「アメリカ合衆国は数値によって比較できる規模において『大国』といえるであろう」と、「大国」という言葉でアメリカを括る。一方本書においては、イギリスの「すぐに核心に触れらないもどかしさを生む国のあり方と歴史こそ」が「イギリスとはなにか」なのだとする。本書を読むことでイギリスという国が持つ核心に触れらないもどかしさをあえて楽しみたい。
 第2章「英語と英語圏」は、英語及び英文学を学ぶ学生には必携である。また、英語に親しみ、英語圏の文化を愉しみたい人々にとっての読み物としても最適である。一例をあげれば、英語史における二重言語状態の「豚」の表現についてである。アングロ=サクソン系被支配者階級の農民らが「豚」をswine、供される肉を食すフランス系支配者階級はそれらをフランス風にporkと呼んだとある。日本人にとっては豚=ポーク(pork)の表現になじみがあるが、イギリスではswineは現在でもpork同様日常的に使われている。昨年大流行した「豚インフルエンザ」は、新聞の見出しをはじめとして、“swine flu”である。本章ではこういった身近な単語を用いて説明する。また、「外来語の急増によって、難解な語の急増が混乱を招いたことにより、知識人の衒学趣味で綴りを混乱させる事態をもたらした」という例として、“receit”が“receipt”になったなども興味深い。
 第3章は「イギリスの地理と自然環境」についてである。特筆すべきは交通に触れた部分である。ここに現在のイギリスが抱える様々な問題があぶり出される。本書にあるように、イギリスの鉄道の歴史が、産業革命以降、「世界初」という形容詞が多く用いられ、鉄道網が世界に先駆けて整備されながら、全国の主要都市とロンドンを結ぶ中央駅が存在せず、各私鉄のターミナル駅を地下鉄が結んできた。今日、その地下鉄はしばしばストや老朽化のため、運行中に突然停止したり、終日運休する。ロンドン周辺の道路事情も悪化するばかりで、2003年渋滞課金制度(London Congestion Charge)が導入されても、渋滞解消の決定打となっていない。海洋国家としてのイギリスの栄光は過去のものであるとの指摘もうなずける。イギリス国内最大かつ国際線利用率世界一のロンドン・ヒースロー空港の役目は年々重要になっているが、地下鉄や郵便(Royal Mail)同様空港におけるストが頻発し、ロストバゲッジ(遺失物)の割合は増大するばかりである。それでもロンドンという街は内外の旅行者を常に魅惑し続ける。歴史的建造物や、公園、及び地方の貴族らのロンドンでの拠点となる邸宅(マンション)などの外観や庭は時を経てもほとんど変化をみせない。映画『フォローミー』(The Public Eye, 1972)で、トポル演じる探偵が素行調査を頼まれて追いかける会計士の妻ミア・ファーローが歩き回ったロンドンの風景や場所は今でも容易に特定できる。そういったロンドンの魅力と混雑ぶりに対比する地方の静かな暮らしがイギリスという国の特徴でもある。本章においてはどちらも違和感なく列記され、イギリスの地理と自然環境を知る最適な案内となっている。
 第4章「イギリスの歴史と文学」はさすがに英文学の泰斗らの執筆によるものだけあって非常に充実している。歴史の部分は単調で退屈な事実の箇条書きを避け、読者に興味を持たせるよう巧みに書かれている。ただ、世襲順序を記憶するのは容易ではないイギリス王室の系図があれば(巻末に歴代君主のリストあり)、さらに理解しやすかったのではないだろうか。17世紀フランスのブルボン王朝ではルイ13世が1610年に即位後、王位継承が14、15、16世と続くのに対し、イギリス・スチュワート朝(途中で共和制をはさむが)は、ジェイムズ1世→チャールズ1世→チャールズ2世→ジェイムズ2世→ウィリアム3世と継承される。これらを系図によって補完されればありがたい。
 文学では、特にロマン主義以降が緻密な研究に基づき豊穣で、評者をしてそれらの作品を再読したい気持ちに駆り立てた。紙面が許されるのならば、コナン・ドイルやアガサ・クリスティなど英語圏の是非を問わず世界中に熱烈なる読者を持つ推理小説についての増筆も待ちたい。下楠雅昌氏著『妖精のアイルランド―「 取り替え子チェンジリング 」の文学史』(平凡社新書 2005年)を発刊以来評者は愛読するものであるが、取り替え子の風習が、たとえば、アガサ・クリスティの“Crooked House”(邦訳「ねじれた家」)における重要なキーワードとなっている。クリスティは“Crooked House”を「自作の探偵小説の中で、わたしがもっとも満足している二作のうちの一つ」として挙げている。文学を専門とする研究者の諸先輩方にクリスティ作品などの面白さを学生向けにわかりやすく語ってもらえたらと願う。
 第5章の「イギリスの宗教と生活」では、ローマ時代にキリスト教が伝えられて現代にいたるまで周到な執筆者によって精確な要約がなされる。本編もさることながら、コラム“Church of England”の訳語等が宗教学という枠組みを超えて興味深い。また一般には馴染み難い宗教用語を同じ英語圏であるアメリカの宗教も交えて明晰に分析する。アメリカの宗教心の強さについて、『アメリカ文化入門』では、「経済が豊かになるにつれ、宗教は重要でなくなる傾向があるが、アメリカは、経済先進国の中では抜きんでて宗教の影響力が強い国なのである」とある。一方、イギリスにおける無宗教者は増加しており、教会へ行く人の数は減少し続けているとの本章の指摘に、とくにイングランドにおいて日曜礼拝に行く人が少ないことを在英中に実感した評者は深く同意する。
 宗教に関しての当該章に入れるべきかどうかの判断は編者に任せたいが、イギリスの食文化についての論考は可能だっただろうか。ヨーロッパにおいて、ラテン系カソリックの国々の食生活はヴァラエティに富み、アングロ・サクソン系プロテスタントの国民はおおむね質素を旨とする。しかるに、カソリックとプロテスタントの中間に位置するともいうべき英国国教会を抱くイギリス国民の食事が突出してまずいのはなぜか。宗教心の高さと文化の豊かさの相関関係は一概には語れないが、イギリス人が生み出す銀器や陶磁器の芸術性と製造技術の高さに比して、それらの器の中に入る食物のまずさは衆目の一致するところである。
 第6章の「イギリスの音楽」は、クラシックから大衆音楽までを網羅している。エドワード・エルガーに関する記載が「イギリス音楽のイメージを担う作曲家といえるだろう」とあるが、イギリス人のエルガーに対する偏向ぶりなどを考えるといささか遠慮がちな表現であったかもしれない。英国内のクラシックFMなどでは、毎日といってもいいすぎではないほど、エルガーの曲がかかっており、Sir  Edward Elgarと“Sir”を必ず毎回麗々しく冠する。ホルストの『惑星』に対するイギリス人の偏愛ぶりも実際より過小な表現に思える。
 第7章の「イギリスの映像文化とメディア」は「イギリス映画のアイデンティティの揺らぎ」の個所が示唆に富んでいる。「イギリス映画とハリウッド映画と区別する意味はもはやないといった認識を持つ人が増えている」中で、本章以外も含めた執筆者らがそれをどう捉えているのかを日本映画学会会員としてはもう一歩踏み込んで聞いてみたいところである。
 本章第2節の「イギリスのラジオとテレビ」では、世界の公共放送の規範といわれたBBCだけでなく、他のチャンネルや、デジタル化、インターネット放送などのイギリスのメディアの多様性をうまくとらえている。1946年に始まったTVとラジオのライセンス制については触れられているが、そのTVライセンス制がいまだにイギリス社会において厳に存続していることを強調したい。また、衛生放送を視聴したくても、家の外観を乱すなどの理由で受信に必要なディシュの取り付けが許されない景観重視の現状などをコラム的に語れば、古いものを愛しつつ、新しいものも取り入れたいイギリス人の文化的矛盾が捉えられたかと思われる。
 第8章の「イギリスの美術」は、他のヨーロッパ諸国の美術に押されて過小評価されがちなイギリス絵画を豊富なカラー図版を交えて豊富に語っている。他章の図版が白黒であるのに対し、本章内の図版がカラーであるのは執筆者のこだわりであろう。大いに評価したい。ただ、絵画=ファイン・アートだけでなく美術工芸の分野にも多少なりとも触れてほしかった。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館は、1851年のロンドン万国博覧後の開館以来、コレクションが400万点を数える世界有数のデザインや工芸の博物館である。また、オックスフォードのアッシュモレアンは、英語圏で市民に公開されたもっとも古いミュージアムであり、大学付属のミュージアムとしても世界最古である。博物誌や博物館学に関しても長い歴史を持つ国である。
 第9章の「イギリスのスポーツ身体文化」は、第1節が階級と教育からはじまっているところが、イギリスのスポーツの意義を端的に表していて面目躍如である。イギリスにおいて、スポーツが長年にわたってパブリックスクールと深いかかわりを持ち、国家の有事の際に役に立つべき青年を訓育するという目的に沿ってきたことを鑑みても、この書き出しは真に的をえている。それだけに、本章にボート=rowingの項がないことが惜しい。特にエイトと呼ばれる8人乗りのボート競技は、オックスフォード対ケンブリッジのボートレースをはじめとして英国人にはなじみが深い。テムズ川で3月末に開催されるこのボートレース(The Boat Race 世界最古の大学対抗レース)で、英国民が待ち望んだイギリスの春が始まる。レースは世界中に衛星放送とインターネットで配信され、テレビだけでも100万人以上の視聴者が毎年その勝敗にかたずをのむ。また、7月第一週に行われるヨーロッパ最古のボートレース、ヘンリーロイヤルレガッタでイギリスの夏はピークを迎える。
 他の競技でいえば、ウィンブルドン選手権大会は、本書で述べられているように、「上流階級の社交場の機能」を果たすだけではない。階級を越えてイギリス人の誇りである。四大タイトルのうち、全米選手権や全豪選手権、全仏大会は、各国名が選手権名称の最初に入っているのに対し(U.S. Open Championships、Australian Opens、Les Internationaux de France)、ウィンブルドン選手権大会のみは、正式名The Championshipsで、国名がつかない。ゴルフの全英オープンも、The Open Championshipsといい、こちらも同様である。上記The Boat Raceも、またしかりである。郵便に切手制を最初に導入したイギリスの切手のみ、国名が入らず、君主の横顔(現在はエリザベス女王)がはいっているのと同じだとイギリス人は言う。パイオニアの特権である。
 第10章は、イギリスの文化や習慣をもっとも明確に表している「イギリスの教育と社会階層」についてである。イギリスの教育システムは刻々と変化する。2011年度は、景気悪化に伴って大学の受け予定学生数が、Aレベルの発表後希望する学生の数をかなり下回っているとのニュースが8月17日付のニュースのトップで扱われていた。イギリス人ですら混乱することの多い難解な教育制度について、本書では表を駆使して非常にわかりやすく論じられている。また、本章の「居住区と社会階層との関係」なども、階級制度を説明するのに好材料である。イギリスの階級主義については一冊すべてを使っても語りきれないが、これだけの分量に簡潔にまとめた力量は圧巻である。
 第11章は「イギリスの王室と政治」である。この章の内容が第4章の歴史部分と一部重複してしまうのは無理のないことであろう。王室の役割と現況を語るのに、執筆者は、映画『クィーン』を例に挙げ、トニー・ブレアがエリザベス女王に謁見を賜るシーンが印象的とする。就任直後と映画の最後のシーンで謁見シーンが二度あるが、女王とブレアの二人の会話の内容の変化も興味深い。また、スコットランド・バルモラル城においてダイアナ元妃が交通事故にあったことをロイヤルファミリーそれぞれが知らされるシーンがある。ガウン姿のエリザベス女王は寝室から湯たんぽを抱きかかえて出てくる。バルモラル城に暖房が入ったのは最近のことであり、女王といえども一般のイギリス人同様湯たんぽを愛好するのである。こういったイギリス王室の親しみやすい部分がユーモアを交えて語られながらも、同章内において政治制度が法学上論理的に述べられているのは、ややちぐはぐな印象も受けたが、最終的には満足のいく読後感である。
 第12章は、イギリスを総括する上で、「外側からイギリスを見る」という観点から文化批評の実践が行われる。「世界に開かれた島国イギリス」と述べられているが、今世紀にはいってイギリス人自身はそういいきることができるのだろうか。EU域外国移民の受け入れ上限数を設定する新制度が導入されるなど、イギリスはかつての移民政策からみるとかなりの方向転換を示している。本章に挿入されたイギリスの移民の出入国図は1998年までの統計をもとにしているが、それ以降の十年でイギリスの移民政策は大きく変化した。十年前までは経済大国という事情を考慮され、比較的ワークパーミット(労働許可証)や学生ビザが取りやすかった日本人も、ここ数年で、英語力の評価により、就労ビザなどのハードルが高くなりつつある。これらを視野に入れて、多民族国家となりつつあるイギリスの未来がどのようなものになるのか興味はつきない。
 本書全体を総括して、最後にもういちどお断りさせていただくが、評者はイギリスの専門家ではない。それゆえに、英語やイギリスを専門とする以外の人間がイギリス文化に接したときの疑問や驚きを交えて語らせていただいた。評者の無礼の言葉の数々をお許しいただきたい。あえて批評をしながらも、本書が入門書ならず専門書としてもイギリス文化に関する圧巻の書であることは論をまたない。各執筆者の筆力もさることながら、全12章をまとめるにあたって編者の苦労がしのばれる。こういった共著は、しばしば企画当初の目的を離れて各執筆者の意図のもと、最終的に、てんでばらばらの印象を受ける場合が多い。その点本書は通読しても違和感なくまた文体にも見事なほど全くぶれがない。イギリスに興味を持つ学生だけでなく、大学に入学したすべての学生に目を通してほしい必須の参考書となることに疑いを持たない。


●新入会員紹介

  • 楠秀樹(東京理科大学非常勤講師)フランクフルト学派と映画
  • 佐野正人(東北大学国際文化研究科准教授)韓国映画論、ポン・ジュノ論
  • 谷元浩之(株式会社メディア総合研究所フェスティバル・ディレクター)ショートフィルム映画祭運営、作品選考、映像編集
  • 中村嘉雄(宇部工業高等専門学校准教授)英米文学、文学理論、西洋思想史