日本映画学会会報第23号(2010年6月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

  • 第6回全国大会は2010年12月4日(土曜日)、大阪大学にて開催されます。全国大会で個人口頭研究発表(25分発表+10分質疑応答)を御希望の方は本年9月19日までに500字程度の発表概要と仮題をお書きの上、日本映画学会事務局(cinema<atmark>art.mbox.media.kyoto-u.ac.jp [<atmark>に @を代入])までお申し込み下さい。そのさいe-mailの件名には「個人口頭研究発表」とお書き下さい。

●書評 加藤幹郎著『表象と批評 ― 映画・アニメーション・漫画』(岩波書店、2010年)

田代 真(国士舘大学文学部教授)

 本学会がその名を冠する「映画」も含めて、「ジャパニメーション」、「漫画」などが輸出文化として世界に冠たるブランドとしての世界的な流通性を持つにつれて、いわゆる「大衆的表象」と呼ばれる文化領域は、高級文化をも含む「表象文化」として一括して呼ばれ、大学の設置学科や設置科目としても、むしろ時には高級文化をしのぐ(或る意味ではそれらが延命する口実として利用され――つまりはそれらを代表=表象する)人気のある存在となっているのが現状であろう。それに伴って、こうした大衆表象は、かつての文学(小説、戯曲)同様、アカデミックな学問研究対象として華やかな扱いを受けるに至っている。しかし本学会の対象領域たる「映画」に限っても、1970年代の初めごろまでは、欧米に立ち後れていた文化後進国日本では、作り手の側の言説、すなわち現場の映画製作の専門家を養成するための一部の芸術学部の専門的技術知識を除けば、映画を文化として享受する側では、かたや一般映画ファン向けの映画商業雑誌の宣伝的商業的紹介と一部のシネフィルの熱狂的な批評専門誌の秘教的言説が横行し、一方アカデミーでは、映画学は、美学・芸術学や演劇学の一分野のそれも正典的高級芸術からみると格下の一種狭間的な文化領域を扱う学問として扱われていたにすぎない。対象が「誰にでもわかる」商業性と大衆性に汚染された「芸術性」の乏しい媒体とみなされ、その享受は美的に不純で貧しいものにすぎず、学問や批評の対象としては格が落ちると誤解されていた。
 そうしたなか、本書評の対象たる『表象と批評』の著者加藤幹郎氏は、1980年代初頭に映画批評家としてデビューを飾られたわけだが、最初の論集『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988年)を読んだ時の鮮烈な印象は忘れることができない。批評家として新作旧作を問わず、見るに値する映画を恐ろしく説得的に分析し、読者をその映画を見ることに駆り立てるとともに(「映像一元論者デイヴィッド・クローネンバーグ」を読んでレンタル・ビデオ・ショップに走ったのは評者だけであろうか)、映画とはどのように見るべきものなのかを、映像と音の織りなす映画のテクスト・レベルの分析理論(「新しい映画のために」など)から、あるいはメロドラマをはじめとするジャンル論(「メロドラマとはなにか」など)やイデオロギー論、作家論から緻密に検証しようとする、その姿勢の徹底的性に衝撃を受けたものだ。
 以来、加藤氏は、学としての映画学の確立に向けて、研究者として、世界をリードする実証的で緻密な研究成果を上げてこられたことは、会員諸氏には申すまでもないことであろう。その研究を特徴づけるのは、ジャンルとそれと深く結び付いたスタジオや検閲などの産業や制度の関連や、ショットや編集など映画のテクストを構成する表象構造から観客と映画館にわたる広範な映画史的なアプローチによって不断に深まり続けている氏の探究が、つねに氏の批評的意識と不即不離に結びついておりそれを不断に研ぎ澄まされたものにしているということだ。それだけでなく、その批評意識は、漫画、写真、書物、建築など、映画以外のさまざまなメディアのテクストに氏の洞察が及ぶとき、それらのメディア=表象に固有な特性を浮き彫りにすることによってそのテクストの分析により一層の厚みと奥行きを与えているのである。
 この意味で、氏の新著『表象と批評』は、標題が示す通り、これまで著者が展開してきた、実証的にして緻密な映画史および映画理論研究と、華麗にして超絶的ともいえる批評的営為の相即の、鮮烈極まりない開陳であり、表象(=再現=反覆)そのもの(の孕む)/に対する批評性の創造的な意義についてのマニュフェストであるといえよう。
 本書の構成と目的については、「まえがき」に簡潔に示されている。つまり、「ゆるやかなつながりをもった三部構成(映画論/アニメーション論/漫画論)」で構成され、「イメージ表象についての重層的考察であり、」「大衆表象」すなわち「ポピュラーな視覚媒体のなかに芸術的アスペクトを見いだすこと」を目的としている。さて、ここで書評者として、あらかじめ、著者と会員諸氏には次の二点について深くお詫びしておきたい。
 まず一点は、もとより、本来書評である以上、紹介批評は本書全体におよぶべきであることは言を俟たない。しかしながら、評者の能力の限界を超えているという理由と、研究対象領域が映画であるという理由により、書評の範囲を、ヒッチコックの『レベッカ』を扱った序章と実写映画を扱った第一部およびアニメーションを扱った第二部までに限らせていただきたいということである(したがって漫画について扱った第三部については、序章から第二部までの関連で最小限言及するにとどめさせていただきたい。)
 もう一点は、先の引用した本書の目的とそこから必然的に帰結する叙述に起因することなのであるが、本書を読んでまず驚かされることは、この書物自体のエクリチュールが、それが対象としている諸テクストから抽出される「芸術的アスペクト」そのものに匹敵する極めて密度の高いテクスチュアリティを有していることである。分析も論旨も明晰を極めるにもかかわらず、(ゆうに同規模の類書の数冊分に匹敵する)その情報の多さと論証の稠密さゆえに、評者は極めて高い強度の読書体験を味わうことができた。こうした豊饒な経験は、対象となる書物の要約的紹介が必須とされる書評者に絶句を強いるものである。そこで、評者としては、むしろ、「本書全体の構成の要」(「まえがき」)とされる序章について若干重点的に論旨をたどり、続く諸章で、反覆される、いくつかの主要な指導動機(モチーフ)を抽出し、その上で書評の対象となる第二部までを通してそれが刻むリズムを素描することにしてみたい。そうすることで、この「テクスト」の、評者なりの可能な「複数の…官能的読解」(「あとがき」)のささやかな感触にすぎぬものであれ、お伝えすることができれば、著者のいう「テクストの意味生産」(「あとがき」)のプロセスに加担することになると思われるからである。幸い、周到な著者によって、読者には「まえがき」で各部、各章ごとにほとんど一語も揺るがすことできないほど精確な要約を提供されている。書評者としての責任放棄との、著者と会員諸氏の誹りは重々甘受させていただいたうえで、読者諸氏にはまずはそれにつくことをお勧めしておきたい。
 「テクスト分析の再定義を試みる」という序章で、「映画テクスト」は、「情動と運動と音響をめぐる極度に複雑な(言語化しがたい)意味の織物」として規定され、「テクスト分析」と「一個のテクストの偶有性と個別性をすくいとる官能的読解である」とされる。では、それはどのような読解なのか。読者は、ヒッチコックの『レベッカ』の緻密なフィルム・テクストの描写に導かれて、冒頭の「樹木の鏡像的イメージ」を観、さらに「名前のないヒロイン」のヴォイスオーヴァー・ナレーションと彼女が「不在の(亡妻)レベッカと鏡像関係を演じる」メロドラマが引き起こすテクスト読解の現場に参入する。夜景から昼景という照明のコントラストと対応するかのようにカメラの水平運動から「眼下の海への落下感」をもたらす「絶妙なショット編集(穿孔的編集)」へと、観客に「眩暈」を惹き起こすテクストの「襞」の存在を垣間見せながら、著者は、この「落下感」の「視覚的効果」が「差異をともなってこの映画のなかで反復されること」に注意をうながす。マクシム・ドゥ・ウィンターと再会しヒロインが「恋に落ちる」とき、観客は、ソファに腰を下ろそうとする彼女のアクションが途中で遮られるために彼女が「永遠に腰を落とし続けて」いくかのような「眩暈」の感覚を覚える。この「落下感」は、その時々のヒロインの情動の「強度の高まるなか、眩暈、茫然自失、失神」(最後の場合は「彼女の瞳は燃えるように輝いている」)と、三度にわたる「差異のともなった反復」が見られるが、著者によれば、それこそが観客に感情移入を容易にするミニマルな主題系であり、同時にそのような「偶有性」のテクスチュアの抽出こそが「テクスト分析」に他ならないのである。
 このような、テクストの丹念な「反復」=「再現」がもたらす「発見」がもたらす「批評性」の射程とはいかなるものか。フェミニズム的精神分析の立場をとる映画学者メアリ・アン・ドーンの『欲望への欲望 一九四〇年代の女性映画』の一章をたどりなおす著者の手つきを見てみよう。ドーンは、屋敷内でヒロインと新夫マクシムのハネムーンの様子を撮ったホーム・ムーヴィーが上映される場面を取り上げ、上映されている映画内映画においても、それをみているヒロインのまなざしにおいても(マクシムが映写機とスクリーンとの間に割って入ることで、「彼女の視線を事実上去勢する」)、「男性の視線の女性の視線にたいする優位」を批判的に指摘する。これに対して、著者は、そもそも切り返し編集の不在のホーム・ムーヴィー(マクシムが双眼鏡で何かを見ているショットに切り返しが欠落しているために何を見ているかわからない)が、『レベッカ』という(何を知っているかわからない男性の謎をめぐる)映画のメロドラマ・サスペンス構造を表象=反復していること、マクシムのこの遮る動作そのものが、その前後の夫婦のショットを「想像的」ではあれ「切り返し」として「縫合」し、ハッピー・エンディングを予告する意味をもつものであることを指摘し、『レベッカ』という古典ハリウッド映画にふさわしい精妙な異性愛的イデオロギー構造を分析しつつ、フェミニズム批評がジャンル論を媒介することでこの「女性映画」を「男性メロドラマ」として読みかえる可能性を示唆してみせる。ここから見えてくることは、著者が批判しようとしているのが、「映画的テクスト」に作動する「映画固有の原理」を「看過」し、安易に既定の真理概念に公然とあるいは暗黙のうちに寄りかかって、「還元的に読解」する独断的硬直的な態度そのものであり、それが結果としてもたらす政治的不徹底である(精神分析でいうところの「徹底操作」に対する「抵抗」の政治性が逆に問われることになるわけだ)。またそれが観客=受容者の能動的な読解が生み出すはずの多様な意味の生産を抑圧、阻害し、受容者をいたずらな商品消費と物神崇拝にかりたて、テクストの意味の平板化、一般化を助長することに対する批判でもある。一見美学による政治的な中立化と見まがえんばかりの著者のテクスト擁護を読み間違えてはならない。著者のいうテクストの「官能的読解」とはテクスト分析による批評的反覆の徹底こそ政治的徹底化に他ならないとする文化批評の実践そのものなのだ。
 これまで著者は、批評の対象たるメディアそのものを構造的に支える仕組みそのものを歴史的、構造的に検証しつつ、批評装置に組換え練りあげてきた。すでに見たように「差異をともなった反復」にしても、たとえばジル・ドゥルーズにおけるような哲学史的な概念が天から降臨したわけではない。差異は「リールを手にフィルムを光に透かせばそこには同一場面としかおもえないコマが永遠に繰り返されている」(『映画ジャンル論』[平凡社、1996年]67頁)という、映画メディアムの基体の反復性に内在するものである。著者の指摘する『レベッカ』という映画に特徴的な「鏡像性」の反覆にしても、周知のように対面する二つのテイクの「縫合」によってスクリーンという表象レベルにしか存在しない非在の(起源を欠いた)反復構造が、いかに「人間どうしがたがいを顔を「見合わせる」ことで感情交流する…様子を…得々と描く…古典的ハリウッド映画に支配的な」「切り返し編集」(『ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学』[みすず書房、2005年]129頁)として観客の習慣的認知構造を訓致してきたか、そしてそれが「メロドラマ」という、ハリウッド映画ジャンルを横断する二元的(「鏡像的」)物語構造の(ブルジョワ的)イデオロギーと相即してきたのかを、著者は(たとえば名著『映画とは何か』[みすず書房、2001年]をはじめとする著作において)映画史的、批判的に検証してきた。したがって、こうした批評の対象にして方法でもある表象メディア装置は両義性を孕んだものとなるだろう。後続する諸章で読者が読むことになるのは、あくまでメディアに内在しつつ表象=反復する批評的営為の緊張にほかならない。
 以下、これらのライトモチーフの交錯を導きの糸として、各章を著者の精確な要約とは離れて横断的に概観するにとどめる。第1章「歴史と物語」では、「テクストとコンテクストとはどのような関係性を結びうる審級」なのかが問われる。ハワード・ホークスの『ハタリ!』と『赤ちゃん教育』を「スペクタクル性」において言及するJ=L.ゴダールとスピルバーグ(『ジュラシック・パーク』)が、鏡像のように差向いにされる。「映画史」という「コンテクスト」においていわばスペクタクルの運動性を欠落させて観客の期待を逆撫で、逆しまに「スペクタクル」と「物語」とを転覆=反覆=表象するゴダールという鏡に映し出されることによって、スペクタクルの運動性を加速し観客の期待をいわば先どることによって表象するスピルバーグがその加速志向の果てに、「スペクタクルの提示」を「歴史=物語の探究へと置換」し、それをほかならぬ「切り返し」の詐術よって「巧妙に隠蔽」するさまが映し出される。映画史とは、「規範」ではなくこのような「参照項」としての映画テクストを呼び出し、現在の映画テクストと突き合わせることによって、つねに裁ち直されなければならないのである。
 第2章「ジャンル、スタジオ、エクスプロイテーション エドガー・G・アルマー(ウルマー)論の余白に」は、著者の(『映画ジャンル論』をはじめとする)ジャンル論の現動化であるとともに、ジャンル論からする「作家主義」への批判ともいえる意味をもつといえるだろう。フィルム・ノワールの傑作『恐怖のまわり道』などで「B級映画の覇者」として一部の映画ファンに珍重されるエドガー・G・アルマーについて、著者は、その『恐怖のまわり道』のテクスト分析において、アルマーは「ジャンルの諸規則の度を越した遵守ぶりが、そのジャンル映画を純粋情動に到達させ」、卓越した映画作家の相貌を抽出する「ジャンルの更新をはかるほどの積極的な創意工夫は見られ」ず、全体的に「ジャンル映画の継承者、運用者、維持者であった」という。しかしながら著者は、「ジャンル変遷史」の観点から「ジャンル縦断者」としてのアルマーの足跡をたどり、「同時代には活性化しているとは言いがたいサブジャンル映画を…早撮りして」、「ジャンルと…軽やかな戯れ」を演じ、「ジャンルの定式」を「意図的」に「利用=搾取」することを特徴とするアルマーの映画作家としてのあり方から、アメリカ映画史における「エクスプロイテーションもの」というカテゴリーが、映画ジャンルの変遷プロセスにおいて果たしてきた意義を引き出すことに成功している。
 第3章「ジャンルの歴史の終焉 西部の人、クリント・イーストウッド」では、メロドラマ(『レベッカ』)が代表する「女性映画」と対をなす「男性映画」の代表、西部劇映画ジャンルにおける、ジャンル歴史の終焉が、最後のウェスタン・スターにして西部劇映画作家クリント・イーストウッドの作品をとおして論じられる。1940年代までは、「善悪二元論」に「イデオロギー的基盤を置くアメリカ建国神話」を反復するかたちで「西部のスモールタウン」に「法と「正義」が立ち上がるプロセス」を描いてきたが、1950年代以後人種偏見に対する修正主義の浸透によって衰退期を迎えて以後、スモールタウンの偽善的秩序を破壊し尽くすアウトローとして、イーストウッドは登場する。共同体の内=前/外=悪という善悪二元論と抵触するアウトローを主人公にしたイーストウッド・ウェスタンでは、共同体創設自体がはらむ他者排除という根源的暴力ゆえに共同体自体善悪の根拠たりえず、「アウトサイダーの内的道徳律に反するすべての政治的法的判断は罰されねばならぬ」という、非順応主義を貫徹することになるのだ。現状社会の順応主義批判に他ならないこの善悪の彼岸の到来とともに終息する。同時に、著者は、西部劇ジャンルが潜在的に男性同性愛的イデオロギーを有しており、異性愛の過度な強調が同性愛の抑圧的表象を暗示していると指摘し、セクシャリティからするジャンル映画分析の方向も示唆している点も興味深い。
 第二部「アニメーション」全体を占める第4章「風景の実存 新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」は、本書の中でも長大な章でもあり、本書の表表紙を飾っているのがまさしく新海誠の『秒速5センチメートル』の一ショットであってみれば、この章に、「前代未聞の」新しい映画作家にして、アニメーションという実写とは異なった新たな映像表現領域、さらには「映画における風景論」という困難な主題が考察される。そこに著者が分析する「風景」、著者のエクリチュールに導かれて読者の前に開ける「風景」については、もはや会員諸氏に、「著者のテクストをお読みください、映画テクストをご覧ください」としか言いようのないものである。ここまで論じられてきた実写メロドラマとは異なり、登場人物は風景とともに生き、「ロングショットで画面の脱中心的構図を構成する」。先行アニメ作家宮崎駿のクラウドスケイプを反復するが、宮崎と違って、「新海誠にあってはクラウドスケイプはもはやアクション生起の場ではなく、アクションを静態的に遠方から見守る包括的風景である。」同時に風景は、「ロマン主義者たちが好む遠方、距離、彼方といった主題系を積極的に担」い、「遠方への憧憬による日常の非日常化の中から産み落とされるもの」である。
 既にお断りしたように、漫画について扱われた第3部に立ち入って言及する用意は評者にはない。しかしながら、映画についての先行する諸章との関連での評者の印象は、著者が両媒体の差異に極めて鋭敏だということである。第5章「法外なもの、不均衡なもの、否定的なもの マニエリスト漫画作家 荒木比呂彦」では、マイブリッジの連続写真がひきあいにだされて、漫画が「複数の画像の齣割りをとおして連続的な運動イメージを表象する媒体である」という、漫画論の素人である評者にも理解可能な原理から議論を進められていく。すなわち、著者は映画論において映画メディアムの基体たるフィルム自体が「差異をともなった反復」であることから議論を始めたのと同様に、メディアムの真っただ中(ミディアム)から始めることである。漫画の時間論の古典ともいえる名論文、第6章「愛の時間 あるいは漫画はいかに一般的討議を拒絶するのか」についても同様である。漫画を享受する時間とはいかなるものか、映画の観る時間といかに違うものなのかを極めて説得的に論じている。「漫画本を手にとり、それを開いてみるとき、あなたが眺める漫画の一齣一齣が、均質化することのできない時間、他のいかなる時間とも交換不可能な時間を生みだす。」その時間こそ「それはあなたと漫画との蜜月であり、あなたをあなたたらしめる幸福な愛の時間である。」「原理的に映画は空間とともにあり、漫画は時間とともにある。」卓抜な大島渚論を含む必読の傑作である。そして第7章「プロミネンス、瞳の爆発 楳図漫画の恐怖の受容と表象」では、われわれ読者は、そうした両メディアの差異を踏まえるようにうながされ、かつ楳図かずおの齣割りにおけるプリミティヴィズム(「ほぼ正方形の齣だけからなる執拗な反復が読者に幻滅感をあたえることになる」)を析出する著者によって、戦慄的な反覆に導かれるのだ。「…楳図かずおの瞳は、…プロミネンスを立ちあがらせる太陽面となる。虹彩は視力を奪わんばかりの攪乱現象をきたし」「瞳孔は限界値をこえて拡大し、そこでは瞳そのものが無残にも破断しているように見える。」『レベッカ』のヒロインのアイライトをあてられて「燃えるように輝いている」瞳は、『恐怖のまわり道』の主人公の矩形のアイライトのあてられた瞳の反射=反覆を経て、ここで「プロミネンス」と化するのだ。序章と最終章の見事な反覆=切り返しを観たところで、本書の読者は、再-読=反覆へ促されるはずだ、さらなる差異=愛を抱いて。
 拙文での紹介からだけでも、本書が、映画や漫画などいわゆる大衆的表象と呼ばれる文化領域に芸術的アスペクトを発見する、圧巻ともいうべき批評的達成であることはおわかりいただけたことと思う。 


●書評 塚田幸光著『シネマとジェンダー ― アメリカ映画の性と戦争』(臨川書店、2010年)

國友万裕(同志社大学嘱託講師)

 第2回日本映画学会のシンポジウム「映画学におけるジェンダー論の可能性」の最初のパネリストをつとめられた塚田幸光先生の待望の単著第一作である。映画とジェンダーに特化した研究書は海外ではすでにたくさん出版されているが、日本人の研究者で単独で一冊の本をまとめるだけの力量のある人は稀有である。どういう本になっているのか、わくわくしながら出版を待っていたのだが、期待を裏切らない面白い本となっている。
 本書には、「アメリカ映画の性と戦争」という副題がつけられている。ジェンダーと一言で言っても、様々な切り口があるわけだが、塚田先生は、「性」と「暴力(戦争)」は不可分であると最初に前置きし、あとがきでも「性」と「戦争」という主題からはずれないことを一つの制約として議論したと語っている。戦争とジェンダーの相関関係にこだわったところが、本書のユニークな魅力となっているのだ。各章で、年代を追って、アメリカが経験してきた「戦争」(第二次大戦、ヴェトナム戦争、湾岸戦争)の意味することが詳細に語られ、そして、それをその時代の映画とオーバーラップさせながら議論が進められている。戦争と映画と性を3本の軸としたアメリカの社会思想史というところだろうか。
 とりあげられるのは、40年代から90年ほどまでの約半世紀にわたるハリウッド映画である。具体的に分析されるのは9本ほどの映画だが、いずれもアカデミー賞を受賞あるいは興業的なヒットとなったものであり、一般大衆が受け入れた映画である。この映画の選択にもアメリカの一部ではなく、アメリカの政治の大きな流れを描きたいという塚田先生の野心が汲み取れる。
 まず、各章ごとの内容を要約してみたいと思う。
 第1章は、1940年代論。この時代は、「男は兵士として国家に忠義を尽くし、女性は家庭を守る」(21)という戦時下のイデオロギーを強化するためのプロパガンダ映画が大量に生産された。映画は「国民を一枚岩として結束させるための手段」として利用されていたのだ。
 そういう社会状況のせいもあり、40年代は映画や小説など文化の消費者となっていたのは男性よりも女性であり、女性が文化をリードしていたにもかかわらず、映画は「女性の解放を描いていない」ことがこの章では問題にされる。
 分析対象となっている映画は『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック監督・1940年)である。『レベッカ』は、夫の亡妻の影に追い詰められていくヒロインを描く。映画のなかには亡妻は登場せず、存在しない人物に対するヒロインの妄想がサスペンスとなる。男性が望む妻になろうとするがゆえに、亡妻がいかなる女性だったのか、そのことを強迫的に追及し、苦悩せずにはいられないヒロイン。結局ラストで、亡妻は、他の男との不貞を重ねるような女性に過ぎず、夫は彼女を憎んでいたことが明かされ、誠実な妻であろうとするヒロインは救われることになる。無事にハッピーエンドを迎えることになるのだが、ヒロインが男性に従属することで終わることは、「異性愛主義/家族主義に基づくジェンダー主義を強化している」(50)に過ぎないのである。
 第2章は、戦中・戦後論。ますます映画が国家のプロパガンダ装置の様相を帯び、映画がアメリカの「弾丸」となり、映画人が「軍人」となる時代である(69)。女性に関して言うならば、この時代は女性への要求が両極化していた時代であったのだろう。本書では、「戦争、女性、口紅」という口紅の広告が引用されているのだが、「女性は唇に紅を引き、美しいままで男性の帰りを待つ」(76)という幻想が流布される一方で、現実の女性たちは、口紅ではなくリベット打ち機をもち、銃後で労働せざるを得なかったのである。すなわち40年代の前半は、男のいない社会を守るために「働く女性」が推奨されていたのだ
 ところが、45年の終戦を境に「女性は家庭を守るべきだ」(81)と時代の要求は、振り子のように反対方向へと揺れていく。女性を再び家庭に戻すことで、「父権的な安定を取り戻す」(82)ための調整が始まるのである。
 分析対象になる映画は、戦争メロドラマ『脱出』(ハワード・ホークス監督・1944年)、フィルム・ノワール『殺人者』(ロバート・シオドマク監督・1946年)、『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督・1950年)の3作である。
 まず、「女性を家庭に戻す」という政治的な目論見のために映画が使われていたことが『脱出』のマリーを中心に考察される。マリーは、映画の前半部ではファム・ファタールであり、自由奔放な女性であったのが、最終的には男性の望む女性になろうとする。まさしく時代のコンテクストを体現する女性という言い方ができるだろう。
 続いて、男性ジェンダーに対する考察として、フィルム・ノワール2作がとりあげられ、50年代以降の映画に繋がるジェンダー・トラブルの予兆が解読される。とりわけ、興味深いのは、『サンセット大通り』は『レベッカ』の反転であるという指摘だろう。『サンセット大通り』は、『レベッカ』同様に、大邸宅を舞台にしているが、そこは「女性支配のトポス」であり、男性は「父権を剥奪され」、「枠」にはめられる。古典的メロドラマでは描かれることのなかった「もうひとつの男性像」が登場するのである(113)。
 第3章は、1969年論。ニューシネマとヴェトナム戦争の問題が語られていく。ヴェトナム戦争が、第二次大戦と大きな一線を画しているのは、プロパガンダ映画を用いない戦争であったということだ。当時の一連のハリウッド映画は、しばしばニューシネマと呼ばれ、傷ついた男たちを主人公としているが、これらの映画は、ヴェトナムを暗示しながらも、直截的には戦争を描いていない。
 分析の対象となるのは、『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー監督・1969年)と『真夜中のカーボーイ』(ジョン・シュレジンジャー監督・1969年)である。両者とも、当時多く見られた「疑似西部劇」(131)だが、旧来の西部劇が勧善懲悪の物語であったのに対し、60年代になるとカウボーイたちは、「正義への疑念」(133)を示し始める。ニューシネマ時代のカウボーイは、「不能のカウボーイ」であり、『ワイルドバンチ』で描かれるのは、「ファルスを銃に求めることでしか男性ジェンダーを確認、回復できない」(144)男たちの姿でしかない。
 それでも、『ワイルドバンチ』はまだ男性ジェンダーを求め続ける部分に一糸の希望があったのだろう。しかし、『真夜中のカーボーイ』に至っては、「もはや修復不可能な」男性ジェンダーが描かれることになる(145)。主人公のジョーは、女性に男性的な身体を売って金銭を得ようとするハスラーだが、これは「銃による男らしさの証明が不可能な時代」(150)になってしまったことを示唆している。また彼のマチズモ的な裸体は、逆説的に不安の表象にしか成りえていない。彼が「鏡に自分を映せば映すほど、観客は彼の男性ジェンダーの不安定さを必然的に感じとってしまう」のである(150)。自分のマチズモに自信がないからこそ、常に鏡でそれを確認せざるを得ないという強迫行為に陥っているのである。
 旧来の西部劇にあったような「ヘテロセクシズムと男性ジェンダーが連動するカウボーイ的父権的ポジション」は完全に消失し、それとは対極の「不安定なジェンダーと曖昧なセクシュアリティ」がこの時代を特徴づける(151)。
 第4章は、1980年代論。ポスト・ヴェトナム期、レーガン時代の映画について議論されている。この時代になると、ヴェトナム戦争の加害者・侵略者であったはずのアメリカを、映画は「犠牲者」として描きだす。
 分析対象となるのは『ランボー』(デッド・コッチェフ監督・1982年)と『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック監督・1987年)である。『ランボー』の分析で着目されているのは、映画のなかでランボーに与えられる熾烈なまでの虐待である。アメリカは、何も知らない若い青年を戦場へと送り出し、戦いに傷ついて帰ってきた彼らを虐待する。だからこそ、「ランボーの暴力行為は肯定され、彼は加害者ではなく、復讐する被害者/犠牲者としてのイメージを帯びる」(191)。ランボーのようなアクション・ヒーローであっても、『真夜中のカーボーイ』のジョーの流れを汲む「精神と身体のバランスの悪さ」を抱え込んでおり、裸を誇示するのは、脆弱な精神を隠すためのものに過ぎないのである(186)。
 『フルメタル・ジャケット』の分析では、いかにして「兵士」が作られるかが説明される。この映画が描く訓練所は、徹底した管理統制で、男たちを画一化し個性を剥奪していく。兵士たちは、「幼児性や女性らしさ/フェミニティ」を根こそぎにされる。しかし、映画のラストで、「ヴェトナム/フェミニティが排除すべき他者とはなりえないこと」が暗示され、「兵士のジェンダーの危うさ」が問われるのである(203)。
 第5章は、湾岸戦争と猟奇殺人論。議論の中心となる映画は『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ監督・1991年)である。『羊たちの沈黙』はフェミニストに歓迎された映画であるが、それは「動く女性」を描いているからだろう。しかし、ヒロインは、女性として主体化しているのではなく、男性ジェンダーを獲得することで、女性としての主体性を喪失しているように見えることが問題にされる(238)。
 一方で、この映画に登場する殺人鬼バッファロー・ビルは、ヴェトナム帰還兵であり、ヴェトナムの後遺症は、ここでも息づいている。ビルが着るものや持ち物はアジア産のものであるが、ビルは、ヴェトナム戦争(=アジアの戦争)に従軍し、その結果、シリアル・キラーとなったことがさりげなく仄めかされているのである。やはり、帰還兵は、「犯罪者、異常者、そして怪物として前景化するか、かつての黒人が被った『見えない人間』のポジションを反復するしかない」のだろうか(220)。しかも、ビルは、「異性愛者であり、同性愛者、或いはバイセクシュアルとも措定でき」る(236)。ビルの欲望とは「女性の皮膚でボディ・スーツをつくり、女性化すること」とも考えられる(238)。すなわち、クラリスとビルは、両者とも、混乱した性のアイデンティティを背負っているのである。
 時代が下るにしたがって、ジェンダーのパニックはさらに広範囲に複雑に広がり、未解決なままアメリカ社会の底を潜行し、人々を脅かす「怪物」になり得るのかもしれない・・・そういう読後感が残る。
 以上が、本書の全体の流れだが、ここまで解説した以外にも興味深い考察はたくさんある。とりわけ、「ヘイズ・コード」の問題に触れた箇所は示唆的である。1968年にヘイズ・コードが廃棄されることで、性と暴力を映画で描くことが許容されるようになる。本書では、ヘイズ・コードを「ハリウッドが作った見えない『枠(フレーム)』」と定義している。それまで、「この枠の中で足掻くしかなかった映画人は、やっとその軛から解放され」、コードの廃棄が「タブーを前景化させる」ことになる(128)。50年代から始まっていたジェンダー・トラブルは、60年代後半以降は激しい性や暴力描写によって表現される時代となるのである。
 また各章でなされる、ジェンダーの映像的考察(フレーミング・ジェンダー)は面白いアイデアの分析である。『レベッカ』や『脱出』における「二重のフレーム」の多用や、『殺人者』での男性とベッドをフレームにおさめる演出、『サンセット大通り』でプールというフレームのなかで浮かんでいる男性。あるいは『真夜中のカーボーイ』で、主人公が鏡のフレームの中の自分の裸身を見つめる場面など、フレーミングされた映像のなかに、その時代のジェンダー意識を解読する鍵が隠されていることが、写真付きで解説されている。
 まとめれば、「戦争」というアメリカ社会全体を拘束する大きな枠を中心に、「ヘイズ・コード」というハリウッド映画の表現を拘束する枠、そして「映画のフレーム」という演出の枠、三重の枠組が映画には存在し、そのなかでジェンダーがどう表現されているかを考察する試みの本という言い方もできるだろう。枠(フレーム)という言葉が、この本のキーワードであると思われるのである。
 半世紀にも渡るハリウッドの映画のジェンダー表象を縦断していく本書は、大きなスケールの力作であり、文句なく読み応えがあり、随所に塚田先生の才気を感じさせる。
 ただ欲を言えば、話が盛りだくさんであるため、一度読んだだけでは頭の整理が上手くつかないということだろうか。3つの枠組(戦争、ヘイズ・コード、フレーミング)のうちのどれかひとつに絞っても面白いものになっていたのではないかとも思う。しかし、半世紀にわたるハリウッド映画のジェンダー表象の歴史を一冊にまとめていただいたことは、とても有益なことであったと思う。これからハリウッド映画をジェンダーの角度から研究したいと思っている人たちにとっては必須の参考書となるであろう。


●書評 ジャック・ランシエール著『イメージの運命』堀潤之訳(平凡社、2010年)

大傍正規(早稲田大学演劇博物館GCOE助手)

 日本における映画学プロパーの論文に、哲学者ジャック・ランシエールの名が引かれる事は稀である。フランス語圏の映画研究に、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズやピエール・ブルデューらの著作に加え、とりわけ『イメージの運命』(2003)、『映画的寓話』(2001)、『無言のパロール ― 文学の諸矛盾についての試論』(1998)、『歴史の上での停止』(ジャン=ルイ・コモリとの共著、1997)、『プロレタリアの夜』(1981)といったランシエールの著作がしばしば援用される事に比べて、それは著しい対照をなしている。近年、英語圏においても紹介が進んでいるランシエールの本格的な映画論ないし文学論が、一部とは言え、ようやく日本語でも読めるようになったことをひとまず喜びたい。稠密かつ饒舌な文体を見事に訳出した今回の邦訳が、日本の映画研究に新たな地平を切り拓く事を期待している。
 本書『イメージの運命』は、五つの論考から構成されている。「Ⅳ デザインの表面」の冒頭部分が、本書全体の議論を分かり易く総括しているので、ここで引用しておこう。「人がどのような仕方で、線を引いたり、単語を配置したり、表面を配分したりしながら、共通の空間の分配をもデザインしているのか、つまり、人がどのような仕方で、諸々の単語や形態を組み合わせることによって、単に芸術の諸形態を定義するだけでなく、〈見えるもの〉と〈思考可能なもの〉のいくつかの布置、感性的世界に住まうことのいくつかの形態をも定義しているのか」(121)、すなわち、線を引く事=絵画、単語の配置=文学(歴史、詩)、表面の配分=映画(写真、絵画)、共通の空間の分配=デザイン(音楽)といった感性的世界の諸様態の編成/再編成が織りなす「表象的体制」(イメージのテクストへの従属)と「美学的体制」(イメージのテクストからの解放)の区分、あるいはその移行(19世紀初頭)が、五つの論考「Ⅰ イメージの運命」、「Ⅱ 文章、イメージ、歴史」、「Ⅲ テクストの中の絵画」、「Ⅳ デザインの表面」、「Ⅴ 表象不可能なものがあるのかどうか」をゆるやかに関連づけている。
 こうした諸々の「芸術の体制」を、ミハイル・ヤンポリスキーが近著『幻視者と機織り ― 文化における物質的なものと観念的なものについて』(2007)の中で再評価した芸術と政治の一致あるいは分離が生じる「場=コーラ」と見なせば、いっけん図式的にも見えるランシエールの諸々の「芸術の体制」が、ある種の逸脱のエレメントを導入し、差異を成立させ、物事の多様性を産み出す「場」として立ち現れてくるだろう。『ティマイオス』において、プラトンはコーラを以下のように位置づけている。コーラは、「いつでも同じものとしてばれなければなりません。何故なら、そのものは、自分自身の特性(もしくは機能)から離れることがまったくないからです。――何しろ、そのものは、いつでも、ありとあらゆるものを受け入れながら、また、そこへ入って来るどんなものに似た姿をも、どのようにしてもけっして帯びていることはないからです。というのは、そのものは元来、すべてのものの印影の刻まれる地の台をなし、入ってくるものによって、動かされたり、さまざまの形をとったりしているものなのでして、このようにして入ってくるもののために、時によっていろいろと違った外観を呈しているというわけだからです。[・・・]
 また、何か柔らかい材料にいろいろの形を押捺しようとする人々も、あらかじめどんな形が見えていてもいっさいそれを見逃すことなく、まずそれを均して、できるだけなめらかに仕上げるものです。
 だから、思考によって捉えられ常にあるところのものの模像のすべてを、自分自身の全体にわたって何度もうまく受け入れなければならない、当のもの(受容者)もまた、それ自身は本来、どんな姿も持たないのが適しているわけです。ですから、可視的な、あるいは一般に感覚的なものたる生成物の、母であり、受容者であるものを、われわれは、土とも空気とも、火とも水とも、あるいはこれから成るどんな生成物とも、また、これらを成立せしめている組成要素とも呼ばずにおきましょう。むしろこれを、何か、目に見えないもの・形のないもの・何でも受入れるもの・何かこうはなはだ厄介な仕方で、理性対象の性格の一面を備えていて、きわめて捉え難いものだと言えば、間違っていることにはならないでしょう」(プラトン「ティマイオス」『プラトン全集12』種山恭子訳[岩波書店、1975年]、50b-51b;ヤンポリスキー、40)。このようにゆらぎを持つ「コーラ」をランシエールの理論的背景とみなすことで(プラトニスムの再評価)、イメージとしての国家=ポリス、作品としての国家=ポリスを「芸術の体制」の一部として考察することが可能となる。なぜなら、イメージないし作品としての「ポリスの本質は、空虚ないし付加の不在によって特徴づけられた感性的なものの分割=共有であるということに存する」からである(ランシエール『政治的なもののほとりで』[1990年]、240;梶田裕「解説に代えて ― ジャック・ランシエールとの対話の余白に」、ランシエール『感性的なもののパルタージュ ― 美学と政治』梶田裕訳[法政大学出版局、2009年]、140)。
 ランシエールにとって、政治の構築とは、「場」から排除された「分け前なき者」の存在を同定し、主体化することである。それゆえ、アナール学派出現以降に流行した「新しい歴史」の名の下に展開される映画研究もまた、政治意識を欠くことになれば、容易にランシエールの歴史学批判にさらされることになる。そうした課題を乗り越えたとき、われわれにも「感覚的なものの分有」としての映画/作品を思考する機会が与えられるだろう。 


●新入会員紹介

  • 小川公代(上智大学外国学部英語学科准教授)文学と映画(主に18世紀~19世紀小説、ゴシックなど)
  • 純丘曜彰(大阪芸術大学芸術学部教授)ストリオティクス
  • 馬 旻昕(神戸大学国際文化学研究科芸術文化論コース博士前期課程)ヌーヴェルヴァーグ時代および大島渚の映画
  • 安 貞美(千葉大学大学院博士後期課程)映画とジェンダー